2013年7月7日日曜日

失恋したら、もう二度と恋はしないの?

 今日は七夕。一年に一度、牽牛と織り姫がデートをする日です。
 
手術室の笹にも
たくさんの短冊がぶら下がりました


 もともとは働き者の二人でしたが、出会って恋仲になると、逢瀬を重ねるうちに、自分たちの本来の仕事をおろそかにするようになりました。
 見るに見かねた神さまが、二人を引き離し、間に天の川を流しました。そして、デートは年に一度、七夕の日だけに制限されてしまった、という昔話だったように記憶しています。

 結局引き離されるのだったら、この二人は一生出逢わない方がよかったのでしょうか?その方が牛飼いは牛飼いとして、織女は織女として、無難に一生をまっとうできたかもしれません。
 出逢うことがなければ、引き離されて、逢いたくても逢えない苦しみに耐えなくてもよかったのではないでしょうか?






 NHKの金曜時代劇で放映された『華岡青洲の妻』(2005年)を先日DVDで見ました。


 青洲は、全身麻酔薬の通仙散を開発するために、何匹ものノラ猫を実験に使って、そのほとんどの命を奪いました。人体実験に及んで、自らの妻を被験者としたときに、薬の副作用で妻を失明に至らせました。しかし、青洲は、こうした数々の「失敗」にもひるまず、通仙散を完成させて、ついには世界で初めて、全身麻酔下での乳癌摘出手術に成功しました。

 このドラマの中に、青洲の妹の小陸という女性が登場します。彼女は、青洲の妻が全盲となった後、華岡家の家事を支えます。あるとき、青洲の門下生から求婚されますが、その申し出を拒んで、彼女は華岡家にとどまりました。そして、その後、頸部に腫瘍ができて、これが原因となって亡くなってしまいます。





 イギリスの詩人テニスンの’In Memoriam’(1850年)の中に、よく引用されるフレーズがあります。

   'Tis better to have loved and lost 
      Than never to have loved at all.

 「恋してふられることは、一度も恋をしないよりもましなのだ」という意味です。テニスンは19世紀の半ばにこう言いましたが、それよりも約半世紀早い時代に生きた青洲の妹の小陸は、テニスンの詩を知らず、後者の道を自ら選んだのでした。

 失恋をおそれて恋をしない、あるいは愛情がさめることをおそれて結婚しないという態度は、失敗をおそれて行動をしない、ということに通じるように思われます。
 ロシア革命を遂行したレーニンは「失敗をしない者は何もしない者だけだ」と、革命に立ち上がろうとした青年たちに向かって檄を飛ばしたことがあります。どんなに用意周到に準備をしたとしても、何らかの行動を起こせばミスや失敗をするリスクが伴うものなのです。

 人間が行動するときに、失敗をすることが避けられないとすれば、大事なのは、失敗をしないことではなくて、失敗したときにどう対処するか、ではないでしょうか。
パトリシア・ライアン・マドソン
『スタンフォード・インプロバイザー』
(東洋経済新報社)


 スタンフォード大学のパトリシア・ライアン・マドソンによれば、「ミスに対するポジティブな対応は、それに気づくこと、認めること、できれば活用すること」なのだそうです。2500年以上前に、孔子も「過ちて改めざる、これを過ちという」(衛霊公篇)と指摘しています。つまり、たんなる過ちは問題ではない。過ちの処置が大切である、ということなのですね。

 大事なのは、まず過ちを認めること。この姿勢がないと相手にも謝ることすらできません。わたしたち麻酔科医も、挿管のときに患者の歯を折ったり、食道挿管をしたり、胃管を気管に入れてしまったりするというミスを起こすことがあるのです。
 こういうミスをおかしたときに、「わたしのせいじゃないわ。患者が悪いのよ。看護師が悪いのよ。お日がらが悪かったのよ…」等々といった言い訳をするのは、見苦しいだけですね。




 時間は一方方向にしか進まないのだから、「もしもあそこで失敗しなかったら…」と後悔しても、何の役にも立ちません。
 過去の失敗をひきずらず、次の行動の糧とするのが、医療行為において求められる姿勢かもしれませんね。ただ、恋愛においても、同じことが当てはまるかどうか…ちょっと微妙なところではありますが。