寒い日曜日、アレクサンドル・ソクーロフ監督の
映画『ファウスト』(2011年)を観ました。
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第68回ヴェネチア国際映画祭 グランプリ(金獅子賞)受賞 |
この映画では悪魔メフィストフェレスは登場しません。非情な高利貸しマウリツィウスがファウストにつきまとい、魂と引き替えにマルガレーテとの一夜の逢瀬をファウストに与えるという契約を結ばせます。マウリツィウスは、人か悪魔かわからない曖昧なキャラクターです。
ファウスト博士は、哲学、法学、神学そして医学を修めて、人生の意味をつきとめようともがいています。
映画は、人体の解剖場面から始まります。臓器を素手に取りながら、「魂はどこにあるのだ」とファウスト博士は空しくつぶやきます。
やがて、高利貸しのマウリツィウスに導かれてマルガレーテに出会ったファウストは、彼女に惹かれていきます。しかし、酒場の混乱の中で、ファウストはマウリツィウスによって、マルガレーテの兄を刺し殺すように仕向けられます。
しだいにファウストに惹かれていくマルガレーテは、ファウストが兄を殺した犯人であることを知って、悩み、ついに泉に身を投げようとします。その寸前、マルガレーテを抱きしめたファウストは、いっしょに泉の底へと沈んで行きます。
映画の終章で、ファウストはマウリツィウスとともにゴツゴツとした岩山を上へ上へと登っていきます。途中で死者たちに出会い、岩穴の温泉から間歇的に吹き上がる蒸気を眺め、自然の驚異に打たれながらも、彼はその原理を「科学的に」論理で解説しようとします。
その後、岩だらけの山を歩いている途中、天上から「どこへ向かうの?」という女性の声が聞こえてきます。それに対して、ファウストはしばらく考えてから「もっと向こうだ!ずっとずっと向こうへだ!」と答えます。
彼の目の前に広がっているのは、延々氷の山々だけでした。映画はそこで終わります。
この終章を見て、「ファウストは論理で世界をわかろうとした人なのだな」と思いました。彼は、魂が何であるのか、どこにあるのかを知りたがっていました。自然界の現象も論理で説明をつけようとしていました。彼は、最後の最後まで、もっと先へ進むこと(真理を追究すること)だけを考えていました。大学院まで進んで、科学を学んだ男性にありがちなキャラクターですね、これは。
だから、彼は今まさに目の前にあるマルガレーテの愛を受けとめることができなかったのではないでしょうか。それは、感情の領域の問題だったからです。感情は時として論理では説明できない心の働きなので、彼には受け入れることができなかったのかもしれません。
医者の間で言われる言葉に
鬼手仏心というのがあります。
これは、
「外科医はメスをふるって患者の体に傷をつけるが、その心には患者を救いたいという、温かい純粋な心がある」ということを言い表した言葉です。
鬼手は論理に基づいています。曖昧な知識や原理による行為は、かえって患者を傷つけてしまいます。一方の
仏心は感情です。これは目には明らかではありませんが、言葉や態度に表れます。
ファウストは、鬼手だけで世界をわかろうとしていたのではないでしょうか?マルガレーテを救わねばならないと願いつつも、ついに仏心から出る言葉も行為も見られませんでした。
鬼手を手に入れるには、ファウストが学問に費やしたように、長い時間とたゆまぬ努力を必要とします。しかし、仏心は、心を決めればその場で即成就されるものです。
自分を愛してくれている人を受け入れるかどうか、自分の持ち物を盗んだ人に対する怒りを鎮めるかどうか、最愛の肉親を亡くした人に共感するかどうか…これらは、感情の領域の問題なので、いたずらに時間をかけても答えは出そうにありませんね。
医学は人間を相手にする学問なので、論理と同時に感情の動きを理解することも大事なのではないだろうか、と映画『ファウスト』を見て考えました。
注)今回の写真は、映画『ファウスト』とは何の関係もありません。著作権の都合で映画のパンフレットの写真を使えなかったので、お許し下さい。