2014年1月31日金曜日

今日は一月最終日でした

 1月の最終日。今日は、1年目研修医のTd先生と2年目研修医のMd先生の麻酔科研修最終日でした。

 Td先生は、今日は、ウロの縦三列の麻酔を担当されました。
Td先生が2年目にローテされるのは、来年3月。
どれだけ成長されているか、楽しみですね。
 Md先生は、脳外科の手術の後、臨時で入った、これまた脳外の麻酔を担当され、5時過ぎからは、院内の当直業務に入られました。
Md先生は、初期臨床研修も残すところ、後ふた月足らず。
脳外の手術中、血ガス測定中です。
 お二人とも麻酔科ローテ最終日は、フル回転でした。おつかれさま。

今日の笑顔

 ナースマンのAnくんは、実はまだ車の免許をもっていません。京都にいる限りは、車の必要を感じないからなのだそうです。でも、友だちと車で出かけるときは、運転の交代ができないので、ヒンシュクを買うことがあるそうです。で、今年は、自動車免許を取得するのが目標なのだそうです。
今年は免許取りま〜す
 ナースのIkさんは、車の免許をもっています。ときどき、愛車でドライブを楽しんでいるそうです。
いつかバスの免許も取りま〜す

2014年1月29日水曜日

ナゾのかしめる

 今朝の有明の月は、月齢28.0。金星と並んで輝いていました。

 五条通は、目下、拡張工事の真っ最中。
 今朝見ると、南側に新しく拡張された道路が開通していました。しかしまだ、北側半分の舗装が残っているので、しばらく工事は続きます。五条通から御前通りに曲がる部分が従来の交差点からずっと離れているので、慣れないと、車で左折するのに戸惑いそうです。
 工事のおじさんにたずねると、五条通の下を流れている天神川の部分の補強工事に時間がかかるので、あと半年くらいは工事が続くのだそうです。
 下の写真は、五条御前通りのほぼ同じ場所で、五条通を東に向かって撮影したものです。左の写真の工事車両が停まっていた場所は、現在、東西の車線が走る新しい通りになっています。
2012年12月20日撮影
2014年1月29日撮影













 今日は、ルーム1のモニターケーブルの中継部の接続がはずれていたため、セントラルモニターに信号がとどきませんでした。臨床工学士さんを呼んで、問題はすぐに解決したのですが、そのときに、臨床工学士のItさんが、「タイバンドでかしめときましょうか?」と提案されました。

 ところが、聞いていた者たちはみな、「???」状態でした。
Itさん:「かしめる」って、言いませんか?

 「かしめる」という言葉が、どういう意味なのか、誰も分からなかったのです。

 これは、てっきり方言だと思って、Itさんの出身地をたずねると、3歳までは広島に、それ以降は愛媛で育ったとのこと。で、広島出身のナースTgさんに聞いてみると、「かしめるなんて知りません」とのこと。それなら愛媛の方言に違いないと思って、研修医のYy先生に聞いてみると、「う〜ん、分かりません。でも、おばあちゃんが言ってたよ〜な…」との答え。




 なるほど、きっと愛媛の古い方言なんだ、とその場では納得しました。
Yy先生:「かしめる」って、
おばあちゃんが言ってたような…

 しかし、その後、ネットで検索してみると、この「かしめる」というのは方言ではなく、ねじ業界の専門用語だったようです。ねじ用語集の中の解説には、次のような説明があるようです。

「リベットを用いて、板と板とを繋ぎ合せる場合に使う言葉で、穴を開けた2枚の板にリベットを通し、飛出た軸先端部(かしめ部)を専用工具、専用設備を使って潰し、固く密着させること」

 Yy先生のおばあちゃんは、ねじ業界に明るかったのでしょうか?

2014年1月28日火曜日

煩悩こそが、諸悪の根源

 今日は夕方から雨模様の天気になりましたが、明け方は、雲ひとつなく、有明の月が明けの明星と並んで東の空に輝いていました。
ブレてしまって、写真はどうもうまく撮れません

 四苦八苦、という言葉があります。「有明の月をカメラで撮るのに四苦八苦した」といった表現をします。
 もともとこの四苦八苦というのは、ブッダが言い出した言葉です。人には避けられない苦しみが四つある、すなわち、生老病死の四苦。この四つは人の意志ではコントロールできないものです。
 生というのは、「生まれる」と解釈するか「生む」と解釈するかで印象が変わりそうです。「生む」苦しみと考えると、これは産婦さんだけの苦しみ(陣痛)のようですね。

 この他に、人生の中で、人は次のような苦しみを味わうとされています。
  ①愛別離苦(あいべつりく):愛する者と別れる苦しみ
  ②怨憎会苦(おんぞうえく):怨み憎む者と会う苦しみ
  ③求不得苦(ぐふとくく):求めるものを得られない苦しみ
  ④五取蘊苦(ごしゅうんく):心身からの苦しみ
 以上の四つの苦を、先の四苦、生老病死に加えて八苦としたのが、四苦八苦となったのだそうです。

 ダライ・ラマ14世は、苦しみには、「苦痛に基づく苦」「変化に基づく苦」「遍在的な苦」という三つの苦しみがあるといいます。この最後の「遍在的な苦」というのは仏教独特の考え方なのだそうです。
ダライ・ラマ14世『思いやり』
[サンマーク出版]

 この苦しみは、人間に普遍的に存在する苦しみで、誰も逃れられないものなのです。この苦しみが自分にも他人にも存在するのだ、ということをまず認識することが肝心なのです。

 まず、そういう苦しみがあるのだ、ということに気づけば、この「遍在的な苦」から解放される糸口がつかめるのです。
 すなわち、こうした苦しみは自分だけがもっているものではなくて誰もがもっているのだ、と考えることができれば、それほど悲惨な気持ちにはならないのではないでしょうか?




 ダライ・ラマ14世はさらにこうも言っています。

「世の中には、他者に対して本当にひどいことをする人たちもいますが、明らかに彼らは、煩悩に影響されてそのような間違ったことをしているだけなのですから、そういった事実を正しく見ることさえできれば、煩悩に引きずられて間違った行いをしている人たちを、気の毒に思う慈悲の心が生じ、その人に対する怒りや憎しみは減っていくはずなのです。」

「その人に欠点があると考えて非難するのではなく、その人を間違った方向に走らせた煩悩こそ諸悪の根源なのだ、と考えることができれば、煩悩のもたらす悪い点を認識するためにも、自分のものの考え方をより建設的な方向に向けるためにも、大いに役に立つのではないかと思います。」

 

2014年1月26日日曜日

人はなぜ作文するのか?

 京都市立病院の南駐車場入り口ゲートから、来春開校予定の看護大学の新校舎が見えました。新棟増築に伴って、2月からは、いよいよ北館の取り壊しが始まります。

 今、世界中で書かれているブログの数ってどれくらいあるのでしょうね?
 ブログが登場してから、文章を書いてみようという人の数は、原稿用紙やノートあるいはワープロ時代に比べると、きっと増えているに違いありません。

 井上ひさしさんの『自家製文章読本』の中に、「文章を書くときの燃料」についての記述があります。

「なんのために、なにを、どのように書こうとしているのか。それを必死に考えることがとりあえず文章の燃料になる。
 なんのために(目的・動機・用途)
 なにを(文章の中心思想)
 どのように(語り口・文章形式[フォーム]・文体)
の三点…」

 そして、『井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室』では、文章で大事なこととして、次の三つが挙げられています。

 ・誠実さ:人の言葉でなくて自分の言葉で
 ・明晰さ:自分のものの考え方の展開とか、自分が今、何をやろうとしているかをしっかり知っている、という意味の明晰さ。
 ・わかりやすさ






 日垣隆さんは、『つながる読書術』の中で、「三手くらい先を考えなければ、文章は書けない」と言っています。

「書きたいことがある。自分はこう思っている。たぶんこういう人たちが読むだろうが、読んでどう思うだろうか。自分は格好いいと思っているけれど、『こいつはバカだ』と笑われはしまいか。ここまで書いたら名誉毀損になるのではないか…」

 ここまで先を読んで文章を書いているので、日垣さんは、「どう書くか」より「どう読まれるか」を優先しているのだそうです。





 この『京都市立病院麻酔科ブログ』の場合は……
 とりあえず、読んでいただけるだけで感謝しております。ありがとうございます。
 

2014年1月25日土曜日

放てば手に満てり

 今日は暖かい一日でした。
今朝の金星
雲を通しても明るく光っていました。

 道元の『弁道話』の中に、「放てば手に満てり」という言葉があるそうです。これは、逆説的な感じもしますが、確かにうなずけることでもあります。
 境野勝悟氏の解説を引用します。

「わたくしたちは、生きる価値を、世の中にばかり求めてしまう。世の中が、自分を認めてくれるかどうか。それが、心配でたまらなくなっていく。
 他人にほめられたいとばかり思っていると、自分の生活が、何者かの手にゆだねられて、何を価値として生きているのか、自分で自分がわからなくなってしまう。
 そうして、いつの間にか、世間が認めてくれないと、生きられなくなってしまう。」
境野勝悟『道元「禅」の言葉』
[三笠書房]

 しかし、よくよく考えてみれば、「世間」が自分のことをどう思っているか、と気にしているのは、実は「世間」ではなくて、自分自身なのですね。つまり、「世間」とは、頭の中にだけある幻なのです。

 道元は、当てにならない夢をつかもうとせず、「放て」と言っています。
 放して捨ててしまえば、本当の生きる価値が「手に満てり」つまり、手の上に満ちあふれるのだよ、と言っているのですね。











 この道元の考え方は、実は、先日紹介したオーストリアの心理学者、アフレット・アドラーの考え方にも通じます。
 アドラーは、「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」と言い切っているそうです。人が自分のことをどう思っているか、ということに基準をおくと、たちまち劣等意識をもったりしてしまうわけです。

岸見一郎・古賀史健『嫌われる勇気』
[ダイヤモンド社]
たとえば、「身長が150cmの男性」というのは、客観的事実です。これについてその男性一人しかいない社会だったら、何の悩みも起こりようがありません。社会の中に彼が存在したとき、「その身長について彼がどのような意味づけをほどこすか、どのような価値を与えるか」が問題となってくるのです。

 アドラー心理学では、他者から承認を求めることを否定します。他者から承認される必要などない、むしろ承認を求めてはいけない、とまで言っています。私たちは、「他者の期待を満たすために生きているのではない」のです。
 このアドラーの「他者からの承認を求めてはいけない」という姿勢が、道元の「放て」という教えと共通しているように思えました。
 

2014年1月24日金曜日

浪漫飛行と天地明察

 今朝は、東の空に明けの明星が輝いていましたが、ちょうど電線にかかる写真しか撮れませんでした。
三本並んだ電線に金星がかかっています

 米米CLUBというグループに、〈浪漫飛行〉という歌がありました。

 そこから「逃げ出す」ことは 誰にでもできることさ
 あきらめという名の傘じゃ 雨はしのげない
   何もかもが 知らないうちに
   形を変えてしまう前に
 いつかその胸の中までも くもらぬように Right Away
 おいかけるのさ My Friend
 トランク一つだけで 浪漫飛行へ In The Sky
 飛び回れ このMy Heart

 忘れないで あのときめき
     一人じゃない もう一度 空へ

このKOMEGUNYというアルバムに
〈浪漫飛行〉が入っています。

 米米CLUBは、不思議なバンドでしたね。プロになってからもアマチュア精神を忘れなかった希有なバンドだったと思います。
 実は、夜勤で急にコンサートに行けなくなったナースから、大阪城ホールでのコンサートのチケットをもらって、一度だけ彼らのコンサートに出かけたことがありました。そのナースは、米米CLUBのファンクラブ会員だったので、前から10列目くらいの席のチケットを持っていました。石井竜也さんの汗まで見えるような席で、コンサートを見ることができたのです。
 ただ、ライブの間、周りの観客は立ちっぱなしの踊りっぱなしの歌いっぱなしで、こちらもそのノリに合わせざるを得なくて、すっかり疲れ果ててしまいました。

 〈浪漫飛行〉は、恋に逡巡する異性の友だちを励ますような歌詞ですが、人の営みというのは、恋愛、失恋、成功、失敗、受験に就職…と、面倒なことばかりですね。
 それに比べて、星辰の営みは、そうした人の営みを嘲笑うこともなく、超然と構えているようです。冲方丁が『天地明察』で描いたように、太陽や星の動きを、人が作った暦ですべて記述しようとすることには、限界があります。



 今朝の京都新聞の「凡語」に、頸髄損傷により手足の自由を奪われながらも、絵筆を口にくわえてすばらしい花の絵や詩を紡ぎ出している、星野富弘さんの詩が紹介されていました。
 これも自然の中の人の愚かさをうたっていますね。

 触るとはじめる鳳仙花の実を造った自然
 触ると爆発する地雷を作ってしまった人間


 笑ったり 泣いたり 望んだり あきらめたり
   にくんだり 愛したり
 そして これらの一つ一つを 柔らかく包んでくれた
   数え切れないほど 沢山の平凡なことがあった

2014年1月21日火曜日

思いやりの心の原点

 2011年1月号の『科学』(岩波書店)という雑誌に「〈利他〉の心と脳・社会・進化」という特集がありました。

 この中で、総合研究大学大学院大学の長谷川眞理子さんは、「サリーとアンの課題」を紹介しています。

 (1)サリーとアンがいて、サリーが箱の中におもちゃを入れて、部屋を出て行く。
 (2)サリーがいない間に、アンがそのおもちゃを箱から出してかごの中に入れ替えてしまう。
 (3)戻ってきたサリーは、おもちゃがどこにあると思っているだろうか?
 この一部始終を見えていたあなたは、おもちゃはすでに箱からかごの中へと動かされていることを知っています。
 でも、その場に居合わさなかったサリーは、そのことを見ていないので、おもちゃはまだ箱の中にあると思っています。

 これを人形劇形式で子どもたちに見せて、「さて、部屋に戻ってきたサリーちゃんは、おもちゃを取るために、箱とかごのどちらを探すでしょうか?」と質問します。
 すると、4〜6歳くらいまでの子どもたちは、「かごの中」と答えるのだそうです。自分が知っていることを素直に答えるわけです。

 サリーちゃんの立場に立てば、サリーちゃんは部屋に戻った時点では「おもちゃはまだ箱の中に入っている」と思い込んでいるので、この場合子どもたちは「箱の中」と答えられるのです。こうした、他人の立場でものごとを考えられるようになるのは、4〜6歳より大きな子どもたちなのだそうです。

 同じ雑誌の中で、京大こころの未来研究センターの内田由紀子さんは、「日本社会の構造が思いやりに依存して成り立っている」と言い、「自分が頼まなかったにもかかわらず、相手がサポートを提供してくれれば、それは相手が自分の状況によく注意を向け、自分のことを考えてくれたというサインとみなすことができる。したがって、そのようにして受けとったサポートは、まさに相手の「思いやり」の結果としてとらえられ、相手との結びつきの感覚を強めると考えられる」と述べています。

 これは、つまりはサリーちゃんの立場でものごとが考えられる人でないとできない行為なのです。

 先の「サリーとアンの課題」だったらサリーちゃんの立場で正解を出せた大人でも、日常生活の中では、なかなか相手の状況に注意を向けたり、相手のことを考えたりすることがむずかしくなってしまうことがあります。


 日常の手術の現場で、直接介助ナースの動きを見ていると、外科医が、たとえば「ペアン」と言ったと同時に、外科医の手の中にサッとペアンを渡す、といったような場面を目撃します。こんなとき、直接介助ナースは、外科医の心を読んで、次はペアンだな、と構えているのでしょうね。

2014年1月20日月曜日

インシデントレポートのアドラー心理学的解釈

 今朝は、朝焼けの中に、ひと筋の飛行機雲が見えました。
 きれいな朝焼けでしたが、夕方からは、雪になりきれなかった冷たい雨が降り出しました。

 井上知子さんは臨床心理士をされています。京大や香川大学で、数学の先生として20年間教鞭をとられた後、心理学を勉強されました。現在は、起業した人や起業を目指している人(とりわけ女性)のメンタルサポートをされています。

 井上さんは、心理学を学ぶ中で、アドラー心理学に出会いました。アルフレット・アドラーは、フロイトと同時代に活躍したオーストリアの心理学者ですが、日本ではフロイトほど知名度がありません。しかし、ヨーロッパでは、フロイト、ユングと並んで三大心理学者の一人とされているそうです。

井上知子『人づきあいがラクになる
「心理学の教え」』[日経BP社]

 このアドラー心理学というのは、実にユニークな考え方をします。個人の行動というのは、何らかの原因があって引き起こされる、と普通は考えます。たとえば、人にいじめられると落ち込んでイジイジするとします。この場合、いじめられたから落ち込んだ、と考えられます。ところが、同じいじめにあっても反撃する人もいます。無視する人もいます。つまり、原因が同じ(いじめにあう)であっても、個人によって反応はさまざまなのです。

 アドラー心理学では、「原因」があって行動が起こるのではなくて、意識的であれ無意識的であれ、何らかの「目的因」があって、人はその目的に向かって行動を起こしていると考えるのです。だから、原因が同じであっても、その目的が人それぞれなので、起こる行動が違ってくるのです。





 京都市立病院には、日常の医療行為の中で事故につながるミスが起きたとき、インシデントレポートを報告する、というシステムがあります。
 このレポートの中にも、「何が原因であったか」というのを分析する項目があります。ともすれば、「こんなレポートを書く羽目になったのは何が原因であったのか」と考えたり、「そもそもオレがダメ人間だったからこんなレポートを書くことになってしまったのだ」などと考える人がいるかもしれません。
 でも、アドラー心理学にしたがえば、いちばん大事なのは「何の目的でこのレポートを書くのか」ということをレポートを書く人もレポートを出せと要求する人も理解していることなのですね。
 「同じ間違いを再び起こして、未来の患者さんに負担や迷惑をかけないため」あるいは「もっと安全に、スムーズに仕事をできるようになるため」といった目的の方が、本来はもっと強調されるべきなのです。

 この目的意識がしっかりと職員の間に浸透していないと、いわゆる「犯人探し」や「責任追求論」に終始してしまい、レポートを書くことが義務のように感じられ、書くのがおっくうになってしまい、やがて、誰もすすんでインシデントレポートを書かなくなってしまうのではないでしょうか?

2014年1月19日日曜日

この冬一番の冷え込みだそうです

 朝、外を見ると雪が4〜5cm積もっていました。青空が広がったものの、午前中は時おり横なぐりの雪が降るような一日でした。


 最高気温も5℃を超えず、この冬一番の冷え込みとなったそうです。

 去年も1月18日に、蠟梅のことを書きましたが、庭の蠟梅の花の数は、去年に比べるとずっと少なくなっていました。

 蠟梅の花言葉は、「先導」「先見」「慈愛」「優しい心」。
 「慈愛」や「優しい心」という花言葉は、蠟梅の甘い香りから連想することができそうです。
 でも、「先導」「先見」というのは、どういう連想からの花言葉なのでしょうか?年の初めの一月に咲くから、ということなのでしょうか?
 


 蠟梅は、1月21日の誕生花とされています。
 毎月21日は、京都市立病院の給料日でもあります。そこで一句:

  寒空に 蠟梅香る 給料日 

2014年1月18日土曜日

There are places I remember…

 ビートルズに、〈イン・マイ・ライフ In My Life〉という曲があります。

ビートルズの《ラバー・ソウル》
このアルバムのB面に〈イン・マイ・ライフ〉
があります。

  記憶に残っている場所がある
  無くなってしまったところもあり
  まだそのまま残っているところもある
  どの場所にもそれぞれ思い出がある
  恋人や友だちと共にした場所
  ぼくの人生の中で
  それらの人たちみんなを
  ぼくは愛してきた

 ちょっと感傷的な歌詞ですね。






 本館手術室の元クリーンルーム(旧ルーム3)は、今では器材庫になっています。かつては、この室で整形の股関節や膝関節手術が行われていました。
旧ルーム3でのクリーン手術


珍しく旧ルーム3で行われた外科の緊急手術

旧ルーム3、最後の姿



















 去年閉鎖された京都市立看護短期大学の建物は、今でも残っていますが、この看板はもうありません。
 来春からは、四年制の看護大学として、新しく増築された校舎を加えて、新たな学生を迎え入れようとしています。

旧京都市立看護短期大学校舎











 





 人もまた然り。




 京都市立病院手術室でかつて共に働いた同僚も、今はそれぞれの道を歩んでいます。








 組織を構成する一個一個の細胞が入れ替わっても、組織の文化は継承されていきます。





 かつて、吉田拓郎は〈イメージの詩(うた)の中で、こう歌いました。

 古い船には新しい水夫が
 乗り込んで行くだろう
 古い船をいま 動かせるのは
 古い水夫じゃないだろう
 なぜなら古い船も 新しい船のように
 新しい海へ出る
 古い水夫は知っているのサ
 新しい海のこわさを

 将来の京都市立病院を支え発展させていくのは、明らかに今の研修医・専攻医諸君なのです。

2014年1月17日金曜日

〈ますいか・たそがれ〉 実験結果です

 さて、五木ひろしの〈よこはま・たそがれ〉の歌詞のように、関連のない写真と言葉を並べただけのブログを、果たして人は読むものか?という実験を三日間にわたって行ってきました。

 結果…
1/14は238PV(ページビュー)と落ち込んだものの、
1/15は421PVと盛り返し、最終日の1/16は395PVでした。

 結局、内容に理屈が通っていなくても、それなりの数のページビューが期待できることが判明いたしました。
この後ろ姿が判るあなたは、かなりの
京都市立病院麻酔科通ですね。

 考えてみれば、自分のためだけの「日記」など、特に起承転結や序破急あるいは、導入発展展開結末などをしっかり構成することもなく、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくるわけですから、ブログも似たようなところがあるのかもしれません。
Kj先生は、目下呼吸器外科研修中

 アメリカ、ノースカロライナ州の地方都市ダンの地方紙〈デイリー・レコード〉が、ダンの人口を上回る購読者数を獲得している理由をたずねられたときに、同社の創業者であるフーバー・アダムズが、「理由は三つ。人名、人名、とにかく人名だ」と言ったように、どんなに論理的な、あるいは逆に非論理的な文章を書こうが、どんなに素晴らしい論を展開、あるいは逆にくだらないギャグを連発しようが、「読者の馴染みの人が登場してさえいれば、そこそこのページビューを獲得できる」ということなのでしょうか?
カメラを意識して隠れてしまったあなたは誰でしょう?

 

2014年1月16日木曜日

ますいか・たそがれ(三番)


 いよいよ〈ますいか・たそがれ〉の三番です。今日は、サビの部分も出てきます。
 〈よこはま・たそがれ〉では、サビはこういう歌詞になっています。

 あの人は 行って行ってしまった
 あの人は 行って行ってしまった


忘れぬ内の まみむメモ

夏のビアパーティ



何でもしますの かきく研修医
またまた再会
マスクホールド

グアム帰りの研修医


わたし もう社会人やけん 
菓子職人のケーキたち


病院見学〜
病院見学〜












ぼくも 病院見学っす

分っかりま せ〜んねん万年
クリーンルームの手洗い中

今は もう母
辞令の日の笑顔















ど〜も
も一度見たいな この笑顔












今はアメリカ人です