2014年2月28日金曜日

北の国からようこそ京都へ

 昨日、木曜日から京都国際会館でICU学会が開催されています。その合間をぬって、学会に参加された北大の森本教授が、京都市立病院の手術室の見学に来られました。
右端が森本教授。新館の手術室を見学中。

 来年度から、麻酔科専攻医のプログラムが大きく変わろうとしています。京都市立病院には心臓外科がないので、本院だけで麻酔科研修をした場合、心臓麻酔を経験することができません。そのため、京都市内の大学や東京医科歯科大、北大とも提携を結んで、専攻医が心臓麻酔のトレーニングができるような方向を、目下検討しています。

 北大は、その提携施設のひとつとしてご協力をお願いしています。北大は、北海道の広域から患者を集めているため、小児の心臓外科だけで、年間200例くらいの症例数があるそうです。近い将来、北の大地の大学で胸を借りて、心臓麻酔のトレーニングができるようになる日が来るかもしれませんね。

今日のお土産

 北大の森本教授から、六花亭のお菓子の詰め合わせと札幌農学校のクッキーをいただきました。
 ありがとうございました。


2014年2月24日月曜日

森田正馬との再会

 大学の教養課程時代に、ぼくと同じ工学部の合成化学科に在籍していたHt君から、森田正馬(もりたしょうま)の本を紹介してもらったことがありました。

 彼は、一浪して京大の工学部に入りましたが、学部を卒業すると関西医大の医学部に再入学しました。ぼくが、その後医学部に行こうと思ったのは、多分に彼の影響もあったかもしれません。
 Ht君は、工学部の学生であった頃から、森田正馬や神谷美恵子の本を読んでいて、ぼくにも紹介してくれたのでした。

 森田正馬は、明治から昭和にかけて活躍した精神科医で、神経症の治療に関して、いわゆる「森田療法」を確立した医師です。この「森田療法」は、薬物を一切使わず、行動療法を主体とする、といった点で、西洋医学とは一線を画していました。
 ぼく自身は、自分では神経症ではないと思っていましたが、学生時代に「森田療法」に関する本を読んで、生きていく上で大いに参考になったのを覚えています。

 そして、先日、たまたま書店で帚木蓬生『生きる力 森田正馬の15の提言』[朝日新聞出版]という本に出会い、森田正馬に「再会」しました。帚木蓬生氏は、東大文学部を卒業後、九大医学部で医学を修めた精神科医ですが、小説家としても活躍されています。
 帚木氏は、森田正馬の論文の中から15のキーワードを抽出して、森田正馬の考え方を分かりやすく解説しています。読み終えてみて、ぼく自身の考えが、森田正馬の考え方にいかに大きな影響を受けていたかを再認識させられました。

 森田正馬は、心とか感情というのは、かげろうのように移ろいやすく、長続きもせぬくせに、くり返しくり返し反復刺激していると、強化されるものだと指摘しています。
 落ち込んだり、気が進まない、あるいは何かをするのに不安を感じる、とかドキドキハラハラするといった心の動きは、人間である以上しごく当たり前のことで、それを矯正しようと考えてはならないのです。そういう感情をそのまま受け入れて、目的とすること(たとえば、勉学であったり、仕事であったり、あるいは人前でのスピーチであったり)を実行しなさい、と森田正馬は勧めています。
 宮本武蔵が言うような「平常心」など凡人には持てるわけがない。人前に出れば、顔が赤らみ、足がふるえるのが当たり前で、それをいつもと変わらぬ「平常心でいなければならない」などと考えるからますますあがってしまうのだ、と説きます。

 人以外の事物は、例外なく「あるがまま」に存在しています。山海草木、牛や馬、セミやクワガタムシも「あるがまま」に生活しているのです。
 「人だけが、自分の身体の状態、精神の状態、対人関係、行動の状態に絶えず注意を向けています。頭重感、めまい、耳鳴り、吐き気、動悸が自分の身体に生じるとこれは一体何だろうと不安になります。病気の知識が多少なりともあれば、何かの病の兆候ではないかと一層心配になるのです」と帚木氏は言っています。
 ここに働いているのが、「はからい」という精神作用であり、これが「あるがまま」の対立概念だとして、森田正馬はこれを嫌いました。彼は、「はからい」を「人生を曇らせ、症状や気がかりを増強する元凶だと喝破した」のでした。

 「森田療法」の第一期ではひたすら絶対臥褥(ずっと臥床し放しで、食事と用便、洗顔、入浴のときのみ起きるのが許されます。もちろん誰とも口をきいてはいけません)が一週間から十日間続きます。
 第二期の軽作業期には、「他人との会話は許可されず、庭の観察、古事記の朗読」などが日課として課せられます。自分の内にではなく、外に関心を向けるようにしているのです。今の患者の心がどのようであるとか、過去のトラウマがどうであるか、などは一切問われません。
 この軽作業期を経て、第三期の重作業期に入ると、患者は新しい入院患者の世話にいそしみます。障子張り、炊事、配膳や風呂当番、鶏小屋の世話や庭掃除を担当します。この時期になって、ようやく患者同士の会話が許されます。しかし、ここでも常に患者の目は内にではなく、外に向けられるようにされています。
 最後の第四期は、いわば社会復帰期で、買い出しに出たり、家への外泊を試みます。このすべての期間が約40日。この間、投薬は一切ありません。
 これが、驚くべき治療効果を上げていたのだそうです。

 あとがきで、帚木蓬生氏はこう言っています。

 「知性をさずけられた人という存在は、誰しもが大なり小なり神経質の傾向を有しています。つまり森田正馬の考え方は、万人におしなべて通用するのです。」

2014年2月22日土曜日

三人の芸術家の仕事ぶり

 井上雄彦。手塚治虫。そして、パブロ・ピカソ。
 この三人の芸術家の仕事ぶりを描いた、漫画ないしDVDがあります。

 井上雄彦は、高校バスケットボールの世界を描いた《スラムダンク》で一世を風靡した漫画家ですが、現在は、吉川英治原作『宮本武蔵』をベースにした武蔵の生涯を描く《バガボンド》の連載を続けています。
 その井上雄彦が、本業の漫画制作の傍らたずさわった、テレビのコマーシャル撮影やニューヨークの書店での壁画作製、スラムダンク発行部数1億冊を記念して行われた、高校の全教室の黒板にスラムダンクの漫画を描くイベントを映像に収めたDVDが《INOUE TAKEHIKO OTHER HAND》です。

 《バガボンド》は、連載の途中から、ペンを毛筆に変えて描いているそうです。テレビのコマーシャルのための絵も大きな毛筆で一気に書かれていました。書店の壁画も、下書きなしの黒一色の墨で描かれています。その創作過程を見ていると、絵というよりも書に近い感じがしました。

 手塚治虫は、「漫画の神様」とも称される日本の代表的な漫画家でしたが、1970年代にはアニメーションの仕事が破綻して、虫プロダクションが倒産に追いこまれた時期がありました。そのどん底の状況を救ったのが、《ブラック・ジャック》でした。《ブラック・ジャック》のヒットをきっかけに虫プロは復活したのでした。


 この《ブラック・ジャック》の創作時期を中心に、手塚治虫の仕事ぶりを描いたのが、宮崎克・原作/吉本浩二・漫画《ブラック・ジャック創作秘話》[秋田書店]です。
 手塚治虫は、一回の話を描く前に、3〜4つのストーリーを考えていて、原稿を取りに来た編集者たちに語って聞かせて、どれが一番おもしろかったか、と尋ねていたそうです。
 また、一度は断念していたアニメーションも、24時間テレビでの放映をきっかけに復活させましたが、このときもほとんどの場面について、「リテイク!!」と、描き直しを指示していたそうです。完成して放映された後にも「全部リテイクです!!」と言って、再放送の予定もないのに、数ヶ月かかって直した、という逸話もあるそうです。

 手塚治虫の場合は、おそらく頭の中にすでに完成品があるので、締め切り時間に追われながら、それらを二次元の紙の上に表現するのに苦しんでいた、といった印象がありますね。何人もの助手スタッフに対しても、自分のイメージどおりの表現となるように、細かく要求を出していたようです。

 そして、パブロ・ピカソ。
 《天才の秘密 ミステリアス ピカソ》(1956年/フランス)では、ピカソの絵の創作過程がカメラに収められました。監督・脚本・編集は、フランスのサスペンス映画の巨匠アンリ=ジョルジュ・クルーゾー。

 第一の手法は「画紙に色を透かすイングで絵を描き、紙の向こう側から純粋に創作のすべてをカメラに収録」する方法でした。しかし、ピカソは「これでは表面的すぎる。油絵をやろう。絵の下にある絵も見せなければ」と言って、第二の手法が採用されます。これは「ピカソとキャメラを同じ側に置き、油絵を数タッチ描く毎にキャメラがその主要な段階を記録する」というもの。この撮影のために、ピカソは1時間に100回以上も立ったり座ったりをくり返したそうです。

 DVDの最後に出てくる大作〈ガルーブの海岸〉が完成するまでの過程は、圧巻です。最初の基本的な構図は辛うじて残しつつも、色や形が次々に変容していく様子を見ていると、ピカソの想像力と創造力は底知れない、と思い知らされます。

 この映画の中でピカソが描いた20点に及ぶ絵は、もう、この映画にしか存在しないということなので、今ではこのDVD自体がピカソの作品のひとつとなっています。
 
 さて、この三人の芸術家の創作態度は、三者三様なのですが、あえて共通項を見つけるとすれば、何でしょうか?
 陳腐かもしれませんが、好奇心と情熱、といったところでしょうか?

今日の笑顔

 Kiさんは、かつて、北館にオペ室があった時代に、手術室ナースとして活躍されていました。いったん京都市立病院を退職した後は、他院の内科病棟で勤務されていました。
 そして、京都市立病院に再就職されたときには、再び手術室の勤務となりました。ブランクの間には、腹腔鏡による外科手術が主流となり、手術の内容自体、すっかり変わってしまっていたそうです。
Kiさんは、この三月末で、京都市立病院を退職されます。
長らく、ありがとうございました。

2014年2月21日金曜日

幸せの新しいものさしを求めて

 金井真介さんは、渋谷区外苑前で「ダイヤログ・イン・ザ・ダーク」(DIALOG IN THE DARK)というプロジェクトを主催しています。直訳すると「暗闇の中での対話」ですね。

 これは、真っ暗闇の中で会場内を歩いて回る、という企画です。ふだん視覚にたよって生活しているわれわれが真っ暗闇の中に置かれると、どういう気持ちになるのか、ということを体験する場です。
博報堂大学幸せのものさし編集部
『幸せの新しいものさし』[PHP研究所]
金井真介さんが変えた「感覚のものさし」
の話は、この本の中に出ています。

 金井さんは、かつて、ローマで開催された「ダイヤログ・イン・ザ・ダーク」イベントに参加したとき、グループからはぐれて、暗闇の中で迷子になってしまったことがあるそうです。
 遠くに人の声は聞こえるけれど、どう歩いてもそっちにたどり着けなくて、すごく心細い思いをしながら、手探りで歩いていました。すると、急に左右から二人のスタッフが現れ、みんなの所に連れ戻してくれたのだそうです。金井さんは、スタッフは暗闇で赤外線を感知する暗視ゴーグルでもつけているのだと思っていたそうです。



 ツアーの後、迷子になったときに左右からレスキューにあたったスタッフも、実は視覚障害者であったことを知って、金井さんは愕然としたそうです。
 ツアーのガイド役の人が視覚障害者であることは最初から知っていたのですが、途中でレスキューに現れたスタッフの動きがあまりに自然で、金井さんはてっきり別の健常者のスタッフだと勘違いしていたからでした。



 「自分よりハンディのあるはずの人に助けられた、という体験は衝撃でした。完全な暗闇という特殊な状況の中では、ふだん、健常者と呼ばれる人がここまで不自由で、逆に障害者と呼ばれている人がここまで自由になれるものなのか、と」

  この体験を通して、金井さんは考えました。
「人は『立場』で生きている。社会とは『立場』と『立場』の関係性だ。だから社会の中では人は『立場』がないと生きられない。だが、環境が変われば『立場』もたやすく変わる。『上下』の関係性が一瞬で逆転することもある。実は、それくらい『立場』というのは相対的な存在なのだ。しかし普通はそれを絶対的なものとして、疑うことがない。
 では、その『立場』を取り去ってみたときに残るものは何か。『立場』を持たない『私』という人間、あるいは『あなた』という存在の本質は何なのか。そのとき『私』と『あなた』の間にはどんな関係性が成立しうるのか?」

 そして、ローマでの暗闇での体験から、金井さんが出した答えは、こうでした。

 「それは自分で暗闇をつくってみることでしか分からない」


 『立場』を絶対視するような見方をしてしまうと、ある『立場』は別の『立場』よりも偉いとか劣っているなどと思ってしまいがちです。
 こういう態度のことを上品な言葉で表現すると、「目くそ鼻くそを笑う」と言います。目くそは鼻くそのことを自分より劣っていると思って笑っているのですが、その目くその態度を離れた所から見ている人からすれば、どちらも同じようなものじゃあないか、と滑稽に見えてくるのです。

 しかし、どちらも同じようなものさ、という態度では、まだまだ物足りないかもしれません。相手に敬意をはらい、礼をつくして初めて、フラットな関係性が形成されたと言えるのではないでしょうか。
 たとえば、暗闇で迷ったとき、助けてくれた視覚障害者に対してわたしたちはどう思うでしょうか?「ありがとう。あなたのおかげで助かりました。」と感謝の意を表すのではないでしょうか?
 明るい場所に出て、相手が視覚障害者であったと知ったとき、その言葉を撤回する人が果たしているでしょうか?どんな場所、どんな相手であっても、フラットな関係性を意識していれば、恒に敬意を払い、礼をつくせるのではないでしょうか?

 「自分で暗闇をつくって」みれば、それぞれの『立場』に関係なく、フラットな関係性が形成されて、お互いに礼をつくせるような気がするのですが、いかがでしょうか?

2014年2月19日水曜日

一年目、トリをつとめるローテータ—

 今週から、一年目研修医の最後のローテータ—、Ym先生が麻酔科研修に来られています。これから、6週間にわたって、麻酔科研修をされる予定です。

 月曜日は、ロボット手術二例につきましたが、ほぼ見学。昨日は当直明けで、今日は全麻一件、脊麻二件と大活躍でした。
 どうぞ、よろしく。

 Ym先生は、学生時代は、バスケットボール部に所属していました。いわゆるスラムダンク世代です。ポジションは、ガードですから、宮城リョータのファンだったのでしょうか?

2014年2月18日火曜日

おてんとさまに顔向けできねぇ…

 昨日紹介した、脳外科医エベン・アレグザンダーの『プルーフ・オブ・ヘブン』を読んでいて、もうひとつ気になったのは、臨死体験で記憶に残った「不思議な世界」=「現実の世界を超えた超自然的な存在」ととらえている点でした。


 確かに、臨死体験から、この世の現実世界以外の「世界」ないしは「存在」に気づくという人はいるようです。
 『生きがいの創造』シリーズで知られた飯田史彦さんも、脳出血時に経験した臨死体験の際に「まぶしい光たち(高次の存在)」ないしは「究極の光」から「物質や理論の束縛から離れて、真に人を救う方法について研究し、実践し、出逢う人々に直接伝えなさい。」というメッセージを受けとったと言っています。




 キリスト教的世界観では、どうしても現実の(物質的な)世界に対して、天国や精神的なもうひとつの世界があるという二元論的な世界観に支配されてしまいがちです。もっとも仏教でも浄土思想という、死後の世界を考える流派もありますが、原始仏教では、実はあの世については触れていません。
 道元は、「生死(しょうじ)のうちに仏あれば生死なし」と言って、二元論的な考え方を否定しています。つまり、すべてのものに仏性(ぶっしょう)があり、これは普遍で、今のこの世は、その仏性の顕れのひとつに過ぎないという考え方なのですね。

 禅宗の内山興正氏は、この「仏」のことを「天地一杯」と文学的に表現しています。

「花の色も、花の生命も、実は『天地一杯』のところから来るのだ。それも忽然として来る、あるいは忽然として去る。…よく考えてみると、もともと私もあなたも、一切のものが天地一杯のところから来ている。天地一杯の生命に生かされているということです」内山興正『正法眼蔵 生死を味わう』[大法輪閣]

 内山氏は、「生死」と題する詩も作りました。
 「手桶に水を汲むことによって/水が生じたのではない/天地一杯の水が/手桶に汲みとられたのだ/手桶の水を/大地に撒(ま)いてしまったからといって/水が無くなったのではない/天地一杯の水が/天地一杯のなかに/ばら撒かれたのだ/人は生まれることによって/生命を生じたのではない/天地一杯の生命が/私という思い固めのなかに/汲みとられたのである/人は死ぬことによって/生命が無くなるのではない/天地一杯の生命が/私という思い固めから/天地一杯のなかに/ばら撒かれたのだ」

 釈迦(ブッダ)と同時代を生きた孔子は、「怪力乱神を語らず」(怪異と暴力と背徳と神秘とは、口にされなかった)[述而第七]と言いながら、『論語』の中では、ときどき「天」という言葉を使っています。

「夫子これにちかって曰く、予が否(すまじ)き所の者は、天これを厭(た)たん、天これを厭たん」(先生は誓いをされて「自らによくないことがあれば、天が見すてるであろう、天が見すてるであろう」と言われた。)[雍也第六]
「子の曰く、我を知ること莫(な)きかな。子貢が曰く、何すれぞそれ子を知ること莫からん。子の曰わく、天を怨みず、人をとがめず、下学して上達す。我を知る者はそれ天か」(先生が「わたしを分かってくれるものがないねえ」といわれたので、子貢は〔あやしんで〕「どうしてまた先生のことを分かるものがないのです」といった。先生はいわれた、「天を怨みもせず、人をとがめもせず、〔ただ自分の修養につとめて〕身近なことを学んで高遠なことに通じていく。わたしのことを分かってくれるものは、まあ天だね。)[憲問第十四]
…etc.

 そう言えば、日本には、昔から「おてんとさまに恥ずかしくない生き方をしなさい」といった言い回しがありましたね。「おてんとさま」は太陽のことを言いますが、「御天道様」と書いて、「天地をつかさどり、すべてを見通す超自然の存在」といった意味もあります。

 現代でも、この「超自然的なパワー」は、色々な人々にさまざまな呼び方をされています。
 ・サムシング・グレート:村上和雄(遺伝子生物学者・筑波大学名誉教授)
 ・宇宙意志:桜井国朋(宇宙物理学者)
 ・光:飯田史彦(経営コンサルタント・「光の学校」を主催)
 ・「すべて」である知性あるいは根源的な知性:ディーパック・チョプラ(医学博士・「チョプラ・センター」主催)
 ………。
 といった具合です。
 『プルーフ・オブ・ヘブン』のエベン・アレグザンダーは、この超自然的な何ものかを「オーム」と呼んでいました。

 要するに、この世を含んだ「すべて」を支配している何ものかに対して、人は色んな呼び名を与えているようです。
 この何ものかを、現在の科学では証明できないという立場で認めない人もいるでしょう。しかし、本来、「科学によって解明されている範疇を超えることがらについては、科学がそうでないと証明したことと、科学がいまだに発見していないこととを、はっきり区別して考えなくてはいけない」(ダライ・ラマ14世)のです。

 だから、臨死体験からの経験を語られた内容が、いくら科学の常識を超えているとしても、それを頭から否定することは、決して科学的な態度ではないのです。
 
 それよりも興味深いのは、物質を超えた「存在」を意識すると、いずれの著者も共通して、謙虚になり、すべての人と物がつながっているという意識から、「許し」ないしは「愛」、「思いやり」という心に目覚めているところです。

 より大きな「存在」を意識すれば、俗世間の地位や名誉や金や権力といったものは、すべて取るに足らないものに思えてくるのかも知れませんね。

2014年2月17日月曜日

脳外科医の臨死体験を読んで考えた

 昨日の京都新聞の書評で、アメリカのベテラン脳外科医エベン・アレグザンダーの『プルーフ・オブ・ヘブン 脳神経外科医が見た死後の世界』[早川書房]がアメリカで200万部を超えるベストセラーになっているという記事を読み、kindle版で購入してさっそく読んでみました。



 著者は、化学を専攻した後、1980年にデューク大学メディカル・スクールで医学の学位を取得し、デューク大学、マサチューセッツ総合病院、ハーバード大学で11年間を医学生、研修医として過ごした医師です。また、神経内分泌学の研究に専念した研究者でもあります。その後、ハーバード・メディカル・スクールで脳神経外科の准教授として15年間勤務し、数多くの手術も手がけていました。
 要するに彼は、「科学に自分を捧げてきた人間」なのです。

 その彼が、2008年11月10日、54歳のときに、大腸菌による細菌性髄膜炎に罹患し、7日間昏睡状態に陥ります。ところが、彼はその後、奇跡的に意識を戻しました。そして、自分自身が昏睡状態にあるときに体験した「不思議な世界」(彼はこれを、物質や人間の意識を超えた高次の存在と「解釈」しています)の記憶について、人々(とりわけ彼と同じ医師や研究者)に向けて、語る必要があるという義務感にかられて、『プルーフ・オブ・ヘブン』を書いたそうです。

 これが、日本のタレントあたりが語られたものだったら、話半分に聞くところですが、自身「科学に自分を捧げてきた人間」だと言っている人物によって語られたとなると、信用度が上がりそうです。読んでみると、実際、彼は慎重に言葉を選び、真摯に自分自身の稀有な体験を語ろうとしている姿勢が伝わってきます。

 しかし、昏睡状態で経験した世界は記憶としては鮮明ではあるけれども、「こちらの世界」の言葉では、十分に表現しきれない、と著者自身が言っています。だから、文字になって、さらにそこに解釈が入ってくると、それはもはや、彼が体験した「不思議な世界」そのものではなく、あくまで「こちらの世界」の言葉で表した「あちらの世界」ということになってしまうところがもどかしいところです。

 いろんな読み方があるかもしれませんが、ぼくは、これを読みながら、グリア細胞のことを考えていました。(著者は、グリア細胞の関与についてはひと言も触れていません)
 確かに、細菌性髄膜炎で大脳の表層の細胞(とりわけニューロン)の「電気的活動」は停止し、正常な脳波は記録されなくなってしまったかも知れません。しかし、著者の場合は、心停止からの蘇生による昏睡ではなく、心臓はずっと動き続けた上での昏睡でした。したがって、脳への血流は保たれたままでいたはずです。すると、大多数のグリア細胞は生きたまま活動していた可能性が考えられないでしょうか?
 以前にも触れたように、グリア細胞というのは、カルシウムイオンの流入という方法で情報の伝達らしきものを行っています。現在、臨床医学では、このカルシウムイオンの動態を知るモニターは存在していません。だから、現状では、医師たちは脳波に頼って、植物状態であるとか脳死であるとかといった判断をすることしかできないのです。

 大胆な仮定として、著者のエベン・アレグザンダーが体験した「臨死体験」の世界における認識が、グリア細胞の活動によるものだとしてみましょう。すると、彼が『プルーフ・オブ・ヘブン』の中で描いた世界は、「死後の世界」や「高次の世界」などではなく、単にグリア細胞が描く世界だということになりはしないでしょうか?

 著者によれば、著者の記憶は「あの場所を後にしたときのままに、どこも色褪せずにそこにあったのだ」そうです。これがグリアの記憶だとすると、グリアの記憶はけっこう鮮明な記憶のようですね。
 また、「こちらの世界よりも高い次元にある世界では、時間が同じようには流れていないのだ。そこでは必ずしもものごとが順を追って展開しない。一瞬が一生分の長さに感じられたりした。だがわれわれの知る時間感覚と比べれば異質ではあるものの、支離滅裂なわけではない」とも述べています。時間の経過や論理的な整合性、言語で表される意味などといったことについては、神経細胞(ニューロン)の活動が要求されるのかもしれません。
 著者は、「あちらの世界」で美しい音楽を聞き、すべてのことを許される「愛」のような存在を感じたとも表現していました。つまり、ニューロンの活動が停止していても、音楽を感じたり、愛に満ちた感覚などは残っていたのです。美や善、あるいは音楽などという内容は、ひょっとしたらグリア細胞の活動が支えているものかもしれないな、と『プルーフ・オブ・ヘブン』を読みながら考えました。

 


2014年2月15日土曜日

声門に挿管チューブを押し込んではいけない

 1985年に、飢餓に苦しむアフリカに救いの手を差しのべようと、全米のトップ・アーティストが一堂に集結して、夜を徹した録音の結果作られたのが〈We Are The World〉でした。
 これは、音楽チャリティ史上最大のヒット曲となっています。
〈We Are The World〉の作詞・作曲は
マイケル・ジャクソンとライオネル・リッチーでした。

 この曲では、全員がコーラスをとる部分と、一人一人のアーティストがソロをとる部分が交互にでてきます。ほんの2,3フレーズだけのソロなのに、誰の声だか聞き分けられます。歌を歌うときの「声」というのは、まさに歌手そのものなのだなと再認識できます。

 この声の元が、声帯という器官の振動です。私たち麻酔科医は、ふだんこの声帯のすき間にある、声門を通して、気管チューブを留置しています。何のトラブルもなく挿管できたときでも、術後に嗄声が残ったりすることもあります。かつては、指導医から「気管チューブは押し込むんじゃない。そっと置きに行くように挿管するんや」と言われたものでした。
 今では、ラリンジアルマスクやi-gelなど声門上で気道確保できるデバイスができているので、喉頭への負担は軽減することが可能になっています。
 以前、声楽家の患者さんが全身麻酔で手術を受けに来られたことがありました。そのとき、挿管ではなくラリンジアルマスクを用いるようにします、と術前に説明をすると、ホッとした顔をされたのを思い出します。



 一色信彦先生の『声の不思議』[中山書店]によると、声を出せるようになったのは、進化のかなり後の段階で、声を出す動物の中でも、人間の「声」ほどデリケートで複雑なものはありません。
 魚が陸に上がり始めたころ、空気中の酸素を吸収するための肺が発生してきましたが、それまでのエラ呼吸と違って、水を飲みこむと肺が水浸しになる危険性が現れました。水と空気の通り道を分ける弁が必要となったのが、喉頭の始まりだとされているそうです。

 「人が直立歩行し、手を自由に動かして物を作り、声をだし、それをさらにいろいろの音(語音)に変えてコミュニケーションに利用しました。手と舌、これが人類文明の二本柱」だと、一色先生は述べています。

2014年2月14日金曜日

ホワイトバレンタイン

 今日は全国的に雪となりました。京都でも朝から雪が降り続き、一時は吹雪のような天候となっていた所もあったようです。
雪の朝。モノトーンの世界です。



病院の仮設廊下に積もった雪には、
出勤する職員の足跡が点々とついていました。


 雪のクリスマスは、ホワイトクリスマスと呼ばれますが、今日はさながらホワイトバレンタインでしたね。













麻酔科にいただいたチョコレート。
ありがとうございました。


 ジャズのスタンダードナンバーに、〈マイ・ファニー・バレンタイン〉という曲があります。ジャズメンのお気に入りで、数多くのアーチストがカバーしています。
 マイルス・デイビス(tp)もハービー・ハンコック(p)、ロン・カーター(b)、トニー・ウィリアムズ(ds)、ジョージ・コールマン(ts)のグループで〈マイ・ファニー・バレンタイン〉をライブで演奏しています。
 この頃のマイルスは、すべての音を自分の支配下に置こうとしていて、まさに暴君のように振る舞っていました。レコードを聞いていても、YouTubeで見ていても、グループのメンバーがピリピリ(というよりもビクビクかな?)している様子が伝わってきます。
1964年2月12日、ニューヨークのリンカーン・センター
フィルハーモニック・ホールでのライブ。

 〈マイ・ファニー・バレンタイン〉は、作詞がロレンツ・ハート、作曲はリチャード・ロジャースで、最初は1937年のミュージカル《Babes in Arms》で紹介されたそうです。
 歌は、女性から男性に向かって歌われる内容になっています。(バレンタインというのは男性の名前ですね)

 私の恋人、おかしなバレンタイン、
 愛しく滑稽なバレンタイン、
 貴方は心から寛がせてくれる。
 貴方のルックスには笑ってしまうし、
 写真うつりもよくないけれど、
 貴方こそ私にとってお気に入りの芸術品。
 体格もイマイチ、気がきくわけでもないけれど、
 どうか、そのままで変わらずにいてほしい。
 ずっと私のそばにいて。
 貴方がいてくれるだけで、
 私にとっては毎日がバレンタインズ・デーなのだから。

 (訳詞は大橋美加さんのものを参考にしました)

大橋美加『唇にジャズ・ソング』
[ヤマハ]

 大橋美加さんは、これは「まさにホメ殺しの正反対をいく歌詞だ。女から男へであるなら、ユーモラスで微笑ましい表現で片付けられるけれど、男性からこんなふうに言われたら、私ならビンタのひとつもくれてやって、ハイ、さようなら。たとえ、心で思っていても口に出してほしくない」と言っています。

 「女性には、男性の愉しみのひとつ”目の欲望”がない。ひたすら、見られる側にまわるしかない。目で見て欲望を遂げることができないのが女性。したがって、”見る側”の男性からどれほど賛辞をもらったか否かで、女性の人生は大きく変わってしまう」のだそうです。

2014年2月12日水曜日

外科ロボット発進!

 今朝は雲が厚く、いったん昇った太陽が再び雲間に隠れてしまうような朝でした。夕方からは小雨が降りましたが、みぞれではなく、少し暖かさを感じさせるくらいの雨でした。

 さて、京都市立病院では、泌尿器科の前立腺全摘術にロボット手術が導入されて、半年が経とうとしていますが、今日はいよいよ外科のロボット手術が始まりました。
右方が患者さんの頭側。頭高位のポジションです。

 胃切除術でしたが、前立腺と違って、こちらは頭高位のポジショニング。患者さんの顔の部分にまでドレープがかかるので、途中で外科医から胃管の深さ調節の依頼があったときに、なかなか鼻元までアプローチできず、これはこれで、外科独特の課題がありそうです。
ダ・ヴィンチの操作は、この画面の右手の方で行っています。


今日の笑顔

 チーム外科ロボットのメンバーの一人であるYoさん。
看護学生時代は茶道部でした。
日本には、茶運び人形というからくり人形を作った
技術力がありますから、これから楽しみですね。

2014年2月9日日曜日

森羅万象に多情多恨たれ

 島地勝彦さんが、「週刊プレイボーイ」の編集長に就任したとき(1982年)に、かねて親交のあった作家の開高健氏から、「編集者マグナ・カルタ」を渡されたそうです。
参考:Associé 2008.03.18.号

 原稿用紙に手書きで書かれた九つの訓辞と補遺一つ。
 なかなか迫力があるので紹介します。

編集者マグナ・カルタ九章

読め。
耳をたてろ。
眼をひらいたまま眠れ。
右足で一歩一歩歩きつつ、左足で跳べ。
トラブルを歓迎しろ。
遊べ。
飲め。
抱け、抱かれろ。
森羅万象に多情多恨たれ。

補遺一つ。女に泣かされろ。

 マグナ・カルタは「読め」から始まっています。ジャンルを問わず、とにかくたくさんの本を読むこと。「読んだ本の数で、人の値打ちは変わる。本を読み、想像力を刺激する。素敵な本との出会い、そして感動が人間を進歩させる」と島地さんは言っています。さらに、「何も食べないと空腹に襲われるように、本を読まないと脳みそが飢餓を訴える。そんな人間になれ。その状態になって初めて「読め」の真意がわかるのだ」とも。
 そして、人の話を聞いて情報を集め、寝る間も惜しんで生きていることを感じろと教える。さらに、足を使って現場を踏み、トラブルや失敗を恐れるなと続けています。
 「遊べ」とは、怠れということではないでしょう。遊んで遊んで遊び抜く。全エネルギーを注ぎ込むほど何かに没頭する中に、真理がある、ということでしょうか。
 「飲め」と言われても酒を飲めない者はどうするか?島地さんは「ただ、酒が飲めなくても、ウーロン茶でとことんつき合う人もいる。もしかしたらそれこそが人生の達人かもしれないな」と言っています。

 「森羅万象に多情多恨たれ」
 あらゆることに好奇心をもち、情念をたぎらせる。事なかれではなく当事者として生きることが、良き仕事人としての条件である、とマグナ・カルタは教えています。

 このマグナ・カルタは、臨床に立ち向かう研修医諸君の心にも響くものがあるのではないでしょうか?
 くれぐれも、「抱け、抱かれろ」ばかりに眼を向けないように。

2014年2月8日土曜日

京都市立病院憲章から「患者様」が消えたワケは…

 夕べから降り続いた雪が、今朝は5cm以上積もっていました。でも、気温が高かったせいか、ちょっとベタベタした雪質でした。

 ところで、京都市立病院には憲章というのがあります。各職員は、この憲章を名札の裏に入れて持ち歩いています。
 この憲章は、「京都市立病院は、市民の健康を支える病院として」と始まります。そして、その第一番目に、「・患者中心の医療サービスを提供します。」という文があります。
 実は、数年前まで、この「患者」という表現は「患者様」となっていました。確かに、一時期、「患者」や「患者さん」ではなく、「患者様」と呼びましょう、という呼びかけがなされた時期がありました。最初に「患者様」という表現を聞いたときに、何故かとても違和感を覚えたものでした。どうもしっくりこなかったのです。

 以前、英文学者の外山滋比古さんが、患者様という表現に違和感がある理由を説明していたことがあります。


 「ことばの姿としても患者様は座りが悪い。人の名前につく様はよいが、一般の名詞には様がつきづらいのである。病人様とは言わない。ご病人様ならよい。依頼人様ではまずくて、ご依頼人様となる。お客様はよく熟したことばだが、客様はない。
 こういう”お(ご)…さま”はしっかりした語法になっているから、ご苦労さま、お疲れさま、ご馳走さま、ご愁傷さま、など、いろいろのことばがある。患者様に「違和」があるとすれば、頭に、おかごがついていないことによるだろう。もっとも患者様には、どちらもつけにくいから困る。」 Associé 2007.07.03






 呼吸器内科医の里見清一先生によれば、「患者さま」という奇妙な呼称は、2001年に厚生労働省が出した、次の通達に端を発するのだそうです。
 「患者の呼称は様を基本とすべし」
 おそらく、この通達にしたがって、京都市立病院でもかつて憲章の文句を「患者」から「患者様」に変更していたのでしょう。



 里見先生は、この「患者さま」という呼称に対して、なかば怒りをこめて反対されていました。
 「そもそも患者さまとはなんであるか。病気になったときに人は偉くなるはずはないので、「様」というのは、医療サービスの供給者である医療者が、顧客である患者に対して、「お客さま」として、「この病院を選んでくださって(そして診療を受けてくださって)ありがとう」という意味で使うことになる。どうして「診療を受けてくださってありがとう」なのか?医療行為で病気が良くなるのであれば、当然利益は患者側にあるので、ありがとうと言うのは患者側であろう。これが人間社会の常識である」里見清一『偽善の医療』[新潮新書])と主張しています。








 外山滋比古さんも「患者様と言われた本人たちの中にも「バカにされている感じがする」という人もいる」と言い、「粗末なベンチに何時間もまたされるのでは、患者様などと持ちあげられても、うれしくない…病院としては本当のサービスにはカネも人手もかかるから、とりあえず、タダのことばでサービスしようというのではないか、患者はひがみっぽいから、そう勘ぐる」のだと分析しています。(同上

2014年2月6日木曜日

邂逅

 しばらく会わない人に、思いがけない所で、あるいは思いがけない機会に会うことを、「邂逅(かいこう)」と言います。長年、市立病院にいると、かつて担当した患者さんの関係者に邂逅することがあります。
今日は日中も雪の舞う寒い一日でした

 外科の手術をひかえた女性の術前診察で手術歴を聞いたとき「24年前に当院で帝王切開を受け、27週の未熟児を生んだ」と言われたことがあります。ひょっとして、ぼくが小児科研修医時代に担当していた未熟児ではと思って、お子さんのフルネームを聞いてると、同僚が担当していた未熟児だと分かって感動したことがありました。今では、当時の未熟児もすっかり成人して、元気に仕事をされていると知らされて、再び感動しました。
2月1日。北の職員駐車場がいよいよ閉鎖されました。

 小児科でフォローする年齢は、慢性腎炎の子どもであっても、せいぜい高校生までです。その後は内科にバトンタッチするので、成人してから、彼や彼女たちがどのように生活をしているかは、なかなか知る機会がありません。

 こんなこともありました。
 そけいヘルニアの手術に、幼児がやってきました。手術が終わって、患児を送り出すときに、迎えにみえたお父さんから声をかけられました。そして、そのお父さんが、小児科時代に担当していた慢性腎炎の患者さんだったことが分かって驚きました。
 当時、中学生の慢性腎炎の患者さんが三人ほど入院していたのですが、病棟では手の付けられない問題児ばかりでした。三人つるんで院外へ無断外出したり、隠し持ったポテトチップスを、病室で分け合って食べたりしていた連中だったので、今でも印象に残っています。
 塩分と蛋白を制限された食事を出され、激しい運動はしないようにと言われ、長期に入院してステロイド・パルス療法を何クールか受けて、定期的に採血検査をされる。若い彼らにとっては、病院は牢獄のような世界だったのかもしれません。
新しい職員駐車場から新館へ向かう仮通路は
「うぐいす張り?」の板の廊下です。

 その三人組の一人 Nくんは、中学では剣道部に所属して毎日クラブの練習に励んでいました。学校検尿で蛋白尿・血尿が見つかり、精査された結果、慢性腎炎と診断されました。それ以降、Nくんは運動を制限され、剣道部も辞めるざるを得なくなりました。
 彼は、病気のために、好きな剣道を止めなければならなかったことが、きっと悔しかったのでしょう、入院してくる前に、中学校の校舎の窓ガラスに石を投げて、何枚も何枚もガラスを割ってやったと、入院中に打ち明けてくれたことがありました。
 やがて、投薬だけでフォローされるようになってからは、入院もいらなくなって、Nくんは外来でフォローされるようになりました。
京都市立病院(画面左手の建物)の南の五条通。
目下、拡張工事中で半分は通行禁止。

 麻酔科に転向してからは、ぼくはすっかりNくんのことを忘れていました。ところがある時、京都駅近くのレストランで元気に仕事をしているNくんの姿を見つけて、久しぶりの邂逅にうれしくなったことがありました。
 腎生検の結果では、なかなか治療に反応してくれないタイプの慢性腎炎だっただけに、元気で仕事をしている姿を見て、ほんとにホッとして、うれしくなったのを思い出します。

2014年2月3日月曜日

研修初日にインフルエンザ?

 今日から、2月のローテーションが始まります。

 二年目研修医のMd先生とTn先生が来られる予定でしたが、お二人ともインフルエンザないし同疑いで、研修初日から休みをとられました。

 1月の半ばから、インフルエンザとノロウィルスなどによる感染性胃腸炎が急増してきました。研修医の先生方は、救急当直ではインフルエンザに罹患した患者さんを最前線で診察されるわけですから、感染のリスクが増えるのも無理はありませんね。
 お大事に。

 で、今日は一年目研修医のMn先生が当直明けでデューティオフだったので、研修医は二年目のKm先生お一人でした。
孤軍奮闘するKm先生

 さて、「かしめる」論争のその後です。Yy先生によると、「かしめる」という言葉を使っていたのは、おばあちゃんではなくて、お父さんだったのだそうです。お父さんもネジ業界とは関係がないそうなので、これはやはり方言なのでしょうか?

 ところで、方言で思い出したことがあります。
 かつて『探偵!ナイトスクープ』という番組があったのをご存じでしょうか?この番組の中で、「全国アホ・バカ分布図」調査というのが行われたことがあります。

全国アホバカ分布図
松本修『全国アホバカ分布考』より

 関西では「アホ」が普通の表現ですが、関東圏では「バカ」という言葉が普通です。この他にも、地方によって「アホ・バカ」類義語にはかなりのバリエーションがあります。ダラ、デレスケ、タワケ、ホデナス、トロイ、ウトイ、アンゴ、等々。

 これらの方言を分布図上にマッピングしてみると、興味深い事実が浮かび上がってきました。アホ文化圏は、関西地方に集中し、バカ文化圏は、関西から離れた地域に広がっているのです。さらに、関西を軸にして、東と西に、同じような表現をする地域が存在することが分かったのです。たとえば、鳥取・島根県はダラ系語圏ですが、同じダラ系語圏は、福井・石川県にもあります。また、ホデナス、ホガネー等のホンジナシ系語圏は、九州南部(鹿児島・宮崎県)とともに東北地方にも分布しているのです。






松本修『全国アホバカ分布考』[太田出版]

 『探偵!ナイトスクープ』プロデューサーの松本修さんの考察は、次のようなものでした。
 
「言葉は、京の都で生まれて、人によって地方へ運ばれて行った。だから、歴史的には『アホ』の方が新しく、『バカ』の方が古いと考えられる。分布図で『アホ・バカ類義語方言』が京の都を中心に同心円状に広がっているのは、言葉が京の都から地方へと広がっていたことを示唆すると考えられる。」

 言葉の拡散のし方は見えてきても、それぞれの言葉の語源となると、まだまだ分かっておらず、ナゾは多いようです。

2014年2月2日日曜日

〈安らぎと結びつき〉システムの時代へ

 ジャングルでライオンに出くわしたときの状況を考えると、ストレスを受けたときの人の反応が分かると、よく言われます。

 瞳孔は開き、心臓は早鐘のように打ち、血圧が上昇し、筋肉は緊張していつでも動ける準備ができている、といった具合です。こうした反応は、交感神経の緊張によるものですが、こうした一連のストレス反応を〈闘争か逃走か〉反応と表現することがあります。
 この〈闘争か逃走か〉反応の対極にあるのが、〈安らぎと結びつき〉システムです。しかし、こちらの方の呼び名は、あまり馴染みがないと思います。生理学者の興味も、どうやら〈闘争か逃走か〉システムの方に偏っているらしく、九割程度の研究が〈闘争か逃走か〉システムに関するものなのだとか。

 人(他の哺乳類も同様)が「よりよく」生きていくためには、この二つのシステムの片方だけでは不十分で、両者がバランスよく配分されることが必要だと考えられています。

 そして、この〈安らぎと結びつき〉システムの主役が、オキシトシンという物質だと、最近の研究で明らかになってきました。
 手術場でオキシトシンというと、帝王切開のときに、ベビーが娩出された後に投与される物質(アトニン®)として知られています。これは、子宮の収縮を促進させて、胎盤の娩出を助ける目的で投与されています。このオキシトシンという物質には、実は、もっと多彩な生理現象を引き起こす力があることが分かってきたのです。

 スウェーデンの女性生理学者である、シャスティン・ウヴネース・モベリさんは、『オキシトシン 私たちのからだがつくる安らぎの物質』[晶文社]の中で、オキシトシンのもつ広汎な生理学的作用について解説しています。
 オキシトシンは、子宮収縮とお乳を出すという働きの他にも、さまざまな効果を発揮しますが、モベリさんは、これらの多岐にわたる効果は、いずれも、「ヒトを含めた動物の、成長と生殖への要求を満たす助けになるものだ」と要約しています。

 中でも興味深いのは、「社交性と好奇心による行動を促す力」です。生殖のためには、性交、授乳、子育てなどができなくてはならないので、ある程度の社交性が必要となります。見知らぬ相手に近づくためには、人にとっても動物にとっても不安を軽くする必要があります。これを助けるのがオキシトシンの役目なのです。
オキシトシンの木:オキシトシン効果のほとんど共通の特徴である
「成長」が、オキシトシンの木の幹になっている。
(シャスティン・ウヴネース・モベリ『オキシトシン』より)

 このオキシトシンは、体内では、ホルモンとして働く場合と神経伝達物質として働く場合があります。外から補充する場合は、経口的に投与されるとすぐに消化されてしまうので体内に取り込めず、また、静注しても血液脳関門を通過しにくいので脳内に入りにくいという性質をもっています。
 しかし、幸いなことに、マッサージその他のタッチ療法などで、内因性のオキシトシンを増加させることができるのだそうです。

 オキシトシンに注目した、もう一人の学者がいます。経済学者から医学者に転身したポール・J・ザックさんです。かれは、徹底して人を対象として、オキシトシン濃度をはかり、場合によりオキシトシンを投与して、どのような場面でオキシトシンが増えるかを検討しました。
 その結果、彼は、「一日8回ハグすれば、オキシトシンが増えて、人は他人を思いやることができる」と主張しています。実際、彼は、訪ねて来た人を必ずハグするので、マスコミからドクター・ラブとあだ名をつけられたとか。(ポール・J・ザック『経済は「競争」では繁栄しない』[ダイヤモンド社]
 彼が、TEDで行ったスピーチは、人気があって、200万回以上視聴されています。このTEDスピーチは、彼の著書の前半部の内容になっています。

 確かに、種の保存という観点からすれば、見知らぬ相手に出会って、〈闘争か逃走か〉システムばかり働かせていたのでは、他の個体と親密な関係がもてなくなって、種は滅んでしまうかもしれませんね。
 モベリさんは、「オキシトシンの放出は人と人との間、とりわけ母と子の間に感情的な絆を形成する」と言っています。さらに「良好な人間関係は、直接的なタッチだけでなく、支えあっていることや温もりや愛を感じることによて、〈安らぎと結びつき〉システムを活性化すると思われる」と控えめに主張しています。

 ただでさえ、ストレスの多い現代社会においては、今後、〈安らぎと結びつき〉システムを活性化させることに注意を注がなければならないのかも知れませんね。