2013年5月6日月曜日

吾、ただ足るを知る

龍安寺のつくばいと侘助椿
つくばいは水戸光圀の寄進と言われています
(龍安寺のパンフレットより)
龍安寺のつくばいには、判じ物のような文字が刻まれています。

 中央の水をためた所を「口」と読ませると、上から右回りに、「吾」「唯」「足」「知」という文字になります。続けて読むと、「吾、ただ、足るを知る」という文になっています。

 道元の「八大人覚」の第一は、「少欲」でした。そして、第二が「知足」です。龍安寺のつくばいに書かれた文字は、この「知足」を表しています。


 「八大人覚」には、こう書かれています。
 「すでに手にした事物において、受けとった限りのもので満足すること、これを『足りるを知る』という。(中略)足りるを知るならば、地面に寝ていても安楽です。足りることを知らない人は、天界の殿堂にあってもなお満足しません。」(石井恭二訳)

 「少欲」というのは、まだ手に入れていないものについて、「欲しい」という心を抑えなさい、ということでした。つまり、ガツガツしない、謙虚な姿勢になれ、ということですね。一方「知足」とは、すでに手に入れたものについて、満足しなさい、ということです。受けとったものに満足したとき、人は感謝の心から「ありがとう」と言うのではないでしょうか?

これらを三人で分けるには…

 お菓子を数人で分配するときのことを考えると分かりやすいかもしれません。友だちとお菓子を分けるとき、三つ欲しいところを一つでいいよと、人に譲る姿勢が「少欲」。一つだけもらったお菓子を「ありがとう」といただくのが「知足」といったところでしょうか?








 禅の修行を積むと、この「知足」は、ただ、今このときに生かされている、ということだけに満足を覚えるようになるようです。
 内山興正さんは「じつは誰でも、今、足りているのです。今足りているという事実があるのです。事実足りておればこそ、今ここに生き生きと生きているのだから。— これが『知足を観ず』ということです。そして足りている今の事実を、生き生きと活かす。これが『知足に生きる』ことです」と述べています。(『正法眼蔵 八大人覚をあじわう』(大法輪閣)より

 手術が終わって全身麻酔から覚めたとき、「ありがとうございました」と、もうろうとした意識の中でおっしゃる患者さんを時おり見かけます。こういう方は、ひょっとしたら、手術を乗りこえて生きていること自体を喜べる知足の人なのかもしれませんね。
呑みほしたワインに満足するのか
もう一杯注文するのか
それが問題だ