2013年5月29日水曜日

来世か明日か

 チベットの古い格言に、「来世か明日か」という言葉があるそうです。
 つまり、どちらが先に来るかは誰にもわからない、という意味です。

 今朝、一人の幼児が亡くなりました。
 昨日、小児科病棟から麻酔科に挿管を依頼された子どもでした。重症の免疫不全症があって、間質性肺炎をくり返していましたが、治療に反応せず短い人生の幕を閉じました。再起をかけた二度目の骨髄移植を試みる直前でした。

ダライ・ラマ『いのちの言葉』
(世界文化社)

 ダライ・ラマ14世は、仏教では死は終わりではないと説いています。

 「誕生は人生の一部であり、死もまた人生の一部。すべてのいのちあるものが通る道なのです。仏陀も多くの人と同じように世を去りました。」

 「私たち仏教徒は、数え切れないほど多くの前世があり、数え切れないほどの来世があると信じています。今世だけがすべてではないと考えれば、自然にゆったりとした気持ちになれます。死は来世への旅立ちにすぎません。」

 「死が訪れても驚くことはありません。心配もいりません。死とは衣装を着替えるようなものです。」

 幼い子どもには、「命」に対して打算も欲もありません。「命」というものが今世の借りものの体に、一時的に宿っているのだと考えれば、幼くして亡くなる子どもは、その体が弱かったのだと考えればよいのでしょうか?この宇宙のどこかに体を離れた「命」というものが漂っているのでしょうか?

 人は誰でも必ず死ぬ。確かにそうなのですが、親より先に自分の子どもが死んでしまうというのは、そう簡単には受け容れられそうにありません。