2014年3月17日月曜日

サエちゃん、はや三ヶ月

 今日は、昼休みに、Mw先生がお子さんを連れて病院を訪ねて来てくださいました。

 昨年の12月に無事に出産されて、お子さんは咲笑(サエ)ちゃんと命名されました。医員室には、たまたま「おじさん」ばかりが集まっていましたが、見知らぬおじさんたちに囲まれても、サエちゃんは泣きもせず、お利口さんにしていました。(小児科のテキストによれば、「知らない人を意識し出す」のは5ヶ月を過ぎるころから始まるので、今はまだ「おじさん」に囲まれても大丈夫のようですね)

 Mwは、産休明けで、6月から麻酔科に復帰される予定になっています。

 京都市立病院では、目下、北館の解体工事の準備が着々と進められています。北館の南側は、すでに防音用のシートに覆われています。
この北館には、かつて整形外科の病棟とリハビリ室がありました。今日、股関節の手術を前に麻酔科の術前診察に来られた患者さんで、以前、反対側股関節の手術をされたときに、北館に入院されていた方がいらっしゃいました。
 「今度入院する4月には、前に入院してリハビリに励んだ北館が取り壊されるのですね」と、少しさびしげに話されていました。
取り壊しをひかえた北館。
この1階にリハビリ室、3階に整形外科病棟がありました。

2014年3月14日金曜日

三月は去る…

 三月は年度末。この季節は、病院を去っていく方々が多くて、少し淋しい季節です。

 ナースのKwさんは、今日が最後の当直。夕飯はつる庵の、出汁のきいたカツカレーでした。
つる庵の出汁のきいたカツカレー

 泌尿器科のIt先生も、この三月で京都市立病院を退職されて、新たな職場に移られます。夕方、休憩室では、ウロ係のOmさんが、It先生のお餞別にプレゼントするフォトアルバムを制作中でした。
撮り貯めた写真を切り貼りして世界でひとつの
フォトアルバムを制作中

 It先生は、京都市立病院では、前部長時代には、間質性膀胱炎に対する膀胱水圧拡張術を数多く経験され、現部長が来られてからは、内視鏡手術、ロボット支援手術の手技をマスターされました。温厚で物静かな先生でした。おつかれさまでした。
ダ・ヴィンチと格闘中のIt先生(右端)

Yd先生と二人で腹腔鏡下副腎腫瘍摘出術に取り組む
It先生(右端)


今日のサプライズ

 今日はホワイトデー。バレンタインデーにチョコレートをもらった男性諸君は、お返しに忙しい日だったに違いありません。
 ホワイトデーなのに、なぜか麻酔科には、外科のKb先生から手作りのブラックココアケーキが届きました。一ヶ月遅れのバレンタイン?
 甘さをひかえた上品なケーキでした。
ありがとうございました。
食べやすく、最初からスライスされていました

ナースにも同じケーキが届けられていました。
Kb先生は、いったいいくつケーキを焼いたのかしら?

2014年3月8日土曜日

退職後は被災地へ:早川克己先生退職記念祝賀会

 今日は、夕方から、京都市立病院放射線科部長の早川克己先生の退職記念祝賀会に出席しました。現役医師ばかりでなく、放射線科医師OBに放射線技師さんやナースも参加して、総勢100名規模のすてきな祝賀会になりました。
会場は、ホテルグランヴィア京都
写真は、京都駅側から見た
京都タワーです。

 早川先生は、京都市立病院で33年間、放射線科医として活躍されました。その間、とくに若手の教育に力を注がれ、優秀な放射線読影医を育てて来られました。
胸にコサージュをつけた直後の早川克己先生です

 早川先生には三つの信条がありました。

 一、速く、沢山、大声で
 一、一日一論文
 一、読影するときは、自分の親の写真と思って読影せよ

 早川先生は、朝早くから病院に出勤されて、前日までのすべての撮影フィルムに目を通していたそうです。外科手術になった患者さんでは、術後の摘出標本とつき合わせて、術前の診断をふり返っていました。
 一日に一つ論文を読むという習慣は、2009年頃から続けておられて、その内二年間は、「一日一論文」の目標を達成されたそうです。
 毎日自転車で通勤され、病院ではいつも階段を利用していたのがプチ自慢。(33年間で、エレベーターを利用したのは、おそらく10回未満とのことだそうです)
研修医二年目のKk先生(左)は、早川先生の指導を受けて
放射線科医を志す決意をされました。

 退職後、早川先生は、先の東北大震災で津波の被害にあった岩手県釜石市の病院に、単身赴任で勤務をされることになっています。建物や器械はあるのに医師がいないという状況を知り、退職後は被災地の医療に貢献をしたいと思われたのだそうです。
横断幕の文字は、いつの間にか
「退職」から「就職」に!
四月からは、岩手県釜石市の病院で活躍されます。
放射線科での日頃の看護は、救急室のナースが
担当しています。


早川克己先生、いろいろ教えていただき
ありがとうございました。

2014年3月4日火曜日

誕生日は昭和天皇と同じに?

 ナースのKsさんが明日から産休入りとなります。今日が産休入り前の最後の出勤でした。予定日は4月29日で、予定通りの出産になると昭和天皇と同じ誕生日となりますね。

 アメリカの小児科医・助産師であるキャスリン・トービンさんは、子育てについて、こんなアドバイスをしています。

 「遊んでいる子どもを観察していると、その子の声や態度、言葉、習慣のなかに、親の姿が見えてくるはず。あなたの態度やものの見方、信念、もの腰は子どもに伝わるのです。
 親が自分の行動に気をつけるようになれば、子どもは問題を的確に把握する力がつき、自分の信念や価値観、目標と一致した行動が取れるようになるでしょう。
 自分の行動をふり返るには、こんな方法を試してください。まず公共の場にいる自分を想像し、『他人の目があるところだったら、自分はこんな行動を取るだろうか』と問いかけてください。人前でそんなことはやらないなと思ったら、すぐに態度を改めましょう。
 このやり方には、自分の反応や思考過程を正常に保ち、落ち着きを取り戻す効果があります。これを習慣にすれば、今後の人生にも役立つはずだし、子どもへの貴重な贈り物になるかもしれませんよ。」

 子育て、というと、とかく子どもの行いに目が行きがちですが、まずは自分自身の立ち居振る舞いに注意をはらいましょう、ということでしょうか?

 「子どもにとって親以上の大人はいないことを忘れないでいてください。役に立つ意見を言う専門家はたくさんいることでしょう。でも子どもにとって、いちばん効き目があるのは、あなたの意見なのです。
 どうか自分を信じてください。親は世界の誰よりも子どものことを知っています。その知識を使って子どもの可能性を引き出してください。そうすれば、子どもは親のいちばんいい部分を受け継いでくれるようになるでしょう。」


2014年2月28日金曜日

北の国からようこそ京都へ

 昨日、木曜日から京都国際会館でICU学会が開催されています。その合間をぬって、学会に参加された北大の森本教授が、京都市立病院の手術室の見学に来られました。
右端が森本教授。新館の手術室を見学中。

 来年度から、麻酔科専攻医のプログラムが大きく変わろうとしています。京都市立病院には心臓外科がないので、本院だけで麻酔科研修をした場合、心臓麻酔を経験することができません。そのため、京都市内の大学や東京医科歯科大、北大とも提携を結んで、専攻医が心臓麻酔のトレーニングができるような方向を、目下検討しています。

 北大は、その提携施設のひとつとしてご協力をお願いしています。北大は、北海道の広域から患者を集めているため、小児の心臓外科だけで、年間200例くらいの症例数があるそうです。近い将来、北の大地の大学で胸を借りて、心臓麻酔のトレーニングができるようになる日が来るかもしれませんね。

今日のお土産

 北大の森本教授から、六花亭のお菓子の詰め合わせと札幌農学校のクッキーをいただきました。
 ありがとうございました。


2014年2月24日月曜日

森田正馬との再会

 大学の教養課程時代に、ぼくと同じ工学部の合成化学科に在籍していたHt君から、森田正馬(もりたしょうま)の本を紹介してもらったことがありました。

 彼は、一浪して京大の工学部に入りましたが、学部を卒業すると関西医大の医学部に再入学しました。ぼくが、その後医学部に行こうと思ったのは、多分に彼の影響もあったかもしれません。
 Ht君は、工学部の学生であった頃から、森田正馬や神谷美恵子の本を読んでいて、ぼくにも紹介してくれたのでした。

 森田正馬は、明治から昭和にかけて活躍した精神科医で、神経症の治療に関して、いわゆる「森田療法」を確立した医師です。この「森田療法」は、薬物を一切使わず、行動療法を主体とする、といった点で、西洋医学とは一線を画していました。
 ぼく自身は、自分では神経症ではないと思っていましたが、学生時代に「森田療法」に関する本を読んで、生きていく上で大いに参考になったのを覚えています。

 そして、先日、たまたま書店で帚木蓬生『生きる力 森田正馬の15の提言』[朝日新聞出版]という本に出会い、森田正馬に「再会」しました。帚木蓬生氏は、東大文学部を卒業後、九大医学部で医学を修めた精神科医ですが、小説家としても活躍されています。
 帚木氏は、森田正馬の論文の中から15のキーワードを抽出して、森田正馬の考え方を分かりやすく解説しています。読み終えてみて、ぼく自身の考えが、森田正馬の考え方にいかに大きな影響を受けていたかを再認識させられました。

 森田正馬は、心とか感情というのは、かげろうのように移ろいやすく、長続きもせぬくせに、くり返しくり返し反復刺激していると、強化されるものだと指摘しています。
 落ち込んだり、気が進まない、あるいは何かをするのに不安を感じる、とかドキドキハラハラするといった心の動きは、人間である以上しごく当たり前のことで、それを矯正しようと考えてはならないのです。そういう感情をそのまま受け入れて、目的とすること(たとえば、勉学であったり、仕事であったり、あるいは人前でのスピーチであったり)を実行しなさい、と森田正馬は勧めています。
 宮本武蔵が言うような「平常心」など凡人には持てるわけがない。人前に出れば、顔が赤らみ、足がふるえるのが当たり前で、それをいつもと変わらぬ「平常心でいなければならない」などと考えるからますますあがってしまうのだ、と説きます。

 人以外の事物は、例外なく「あるがまま」に存在しています。山海草木、牛や馬、セミやクワガタムシも「あるがまま」に生活しているのです。
 「人だけが、自分の身体の状態、精神の状態、対人関係、行動の状態に絶えず注意を向けています。頭重感、めまい、耳鳴り、吐き気、動悸が自分の身体に生じるとこれは一体何だろうと不安になります。病気の知識が多少なりともあれば、何かの病の兆候ではないかと一層心配になるのです」と帚木氏は言っています。
 ここに働いているのが、「はからい」という精神作用であり、これが「あるがまま」の対立概念だとして、森田正馬はこれを嫌いました。彼は、「はからい」を「人生を曇らせ、症状や気がかりを増強する元凶だと喝破した」のでした。

 「森田療法」の第一期ではひたすら絶対臥褥(ずっと臥床し放しで、食事と用便、洗顔、入浴のときのみ起きるのが許されます。もちろん誰とも口をきいてはいけません)が一週間から十日間続きます。
 第二期の軽作業期には、「他人との会話は許可されず、庭の観察、古事記の朗読」などが日課として課せられます。自分の内にではなく、外に関心を向けるようにしているのです。今の患者の心がどのようであるとか、過去のトラウマがどうであるか、などは一切問われません。
 この軽作業期を経て、第三期の重作業期に入ると、患者は新しい入院患者の世話にいそしみます。障子張り、炊事、配膳や風呂当番、鶏小屋の世話や庭掃除を担当します。この時期になって、ようやく患者同士の会話が許されます。しかし、ここでも常に患者の目は内にではなく、外に向けられるようにされています。
 最後の第四期は、いわば社会復帰期で、買い出しに出たり、家への外泊を試みます。このすべての期間が約40日。この間、投薬は一切ありません。
 これが、驚くべき治療効果を上げていたのだそうです。

 あとがきで、帚木蓬生氏はこう言っています。

 「知性をさずけられた人という存在は、誰しもが大なり小なり神経質の傾向を有しています。つまり森田正馬の考え方は、万人におしなべて通用するのです。」

2014年2月22日土曜日

三人の芸術家の仕事ぶり

 井上雄彦。手塚治虫。そして、パブロ・ピカソ。
 この三人の芸術家の仕事ぶりを描いた、漫画ないしDVDがあります。

 井上雄彦は、高校バスケットボールの世界を描いた《スラムダンク》で一世を風靡した漫画家ですが、現在は、吉川英治原作『宮本武蔵』をベースにした武蔵の生涯を描く《バガボンド》の連載を続けています。
 その井上雄彦が、本業の漫画制作の傍らたずさわった、テレビのコマーシャル撮影やニューヨークの書店での壁画作製、スラムダンク発行部数1億冊を記念して行われた、高校の全教室の黒板にスラムダンクの漫画を描くイベントを映像に収めたDVDが《INOUE TAKEHIKO OTHER HAND》です。

 《バガボンド》は、連載の途中から、ペンを毛筆に変えて描いているそうです。テレビのコマーシャルのための絵も大きな毛筆で一気に書かれていました。書店の壁画も、下書きなしの黒一色の墨で描かれています。その創作過程を見ていると、絵というよりも書に近い感じがしました。

 手塚治虫は、「漫画の神様」とも称される日本の代表的な漫画家でしたが、1970年代にはアニメーションの仕事が破綻して、虫プロダクションが倒産に追いこまれた時期がありました。そのどん底の状況を救ったのが、《ブラック・ジャック》でした。《ブラック・ジャック》のヒットをきっかけに虫プロは復活したのでした。


 この《ブラック・ジャック》の創作時期を中心に、手塚治虫の仕事ぶりを描いたのが、宮崎克・原作/吉本浩二・漫画《ブラック・ジャック創作秘話》[秋田書店]です。
 手塚治虫は、一回の話を描く前に、3〜4つのストーリーを考えていて、原稿を取りに来た編集者たちに語って聞かせて、どれが一番おもしろかったか、と尋ねていたそうです。
 また、一度は断念していたアニメーションも、24時間テレビでの放映をきっかけに復活させましたが、このときもほとんどの場面について、「リテイク!!」と、描き直しを指示していたそうです。完成して放映された後にも「全部リテイクです!!」と言って、再放送の予定もないのに、数ヶ月かかって直した、という逸話もあるそうです。

 手塚治虫の場合は、おそらく頭の中にすでに完成品があるので、締め切り時間に追われながら、それらを二次元の紙の上に表現するのに苦しんでいた、といった印象がありますね。何人もの助手スタッフに対しても、自分のイメージどおりの表現となるように、細かく要求を出していたようです。

 そして、パブロ・ピカソ。
 《天才の秘密 ミステリアス ピカソ》(1956年/フランス)では、ピカソの絵の創作過程がカメラに収められました。監督・脚本・編集は、フランスのサスペンス映画の巨匠アンリ=ジョルジュ・クルーゾー。

 第一の手法は「画紙に色を透かすイングで絵を描き、紙の向こう側から純粋に創作のすべてをカメラに収録」する方法でした。しかし、ピカソは「これでは表面的すぎる。油絵をやろう。絵の下にある絵も見せなければ」と言って、第二の手法が採用されます。これは「ピカソとキャメラを同じ側に置き、油絵を数タッチ描く毎にキャメラがその主要な段階を記録する」というもの。この撮影のために、ピカソは1時間に100回以上も立ったり座ったりをくり返したそうです。

 DVDの最後に出てくる大作〈ガルーブの海岸〉が完成するまでの過程は、圧巻です。最初の基本的な構図は辛うじて残しつつも、色や形が次々に変容していく様子を見ていると、ピカソの想像力と創造力は底知れない、と思い知らされます。

 この映画の中でピカソが描いた20点に及ぶ絵は、もう、この映画にしか存在しないということなので、今ではこのDVD自体がピカソの作品のひとつとなっています。
 
 さて、この三人の芸術家の創作態度は、三者三様なのですが、あえて共通項を見つけるとすれば、何でしょうか?
 陳腐かもしれませんが、好奇心と情熱、といったところでしょうか?

今日の笑顔

 Kiさんは、かつて、北館にオペ室があった時代に、手術室ナースとして活躍されていました。いったん京都市立病院を退職した後は、他院の内科病棟で勤務されていました。
 そして、京都市立病院に再就職されたときには、再び手術室の勤務となりました。ブランクの間には、腹腔鏡による外科手術が主流となり、手術の内容自体、すっかり変わってしまっていたそうです。
Kiさんは、この三月末で、京都市立病院を退職されます。
長らく、ありがとうございました。