2013年12月31日火曜日

仁とは〈あいだのいのち〉だった!

 小倉紀蔵氏の『新しい論語』の続きです。

 小倉氏の『論語』の解釈がすごいのは、とりわけ仁について、です。


 『論語』の中には、仁という言葉がたくさんでてくるのですが、孔子とその弟子は、仁とは何であるか、という明確な定義をしていません。弟子たちは仁について知りたがっているのに、孔子は「仁とはこれこれのものだ」とはっきりとは言いませんでした。
 それは、「そもそも仁とは一義的な定義にはなじまない、ということを孔子はいいたいから」だ、と小倉氏は考察しています。





 仁というのは、ある個人の中にあるものではなく、人と人のあいだに、偶然たちあがってくるもの(これを小倉氏は〈あいだのいのち〉と呼びました)で、決して「愛」や「道徳」という言葉には置きかえられないものなのだそうです。さらに小倉氏によれば、「個として己を確立することが前提となって、その個と外在する存在や価値との〈あいだ〉に、仁が成立するということである。逆にいえば、個がなければ仁は成り立たないのである。すべての人間が共同体のなかに完全に埋没している状態においては、仁は立ち現れない」のです。道徳的にかくあるべきという一面的な考えに支配されている場合もまた然りでしょう。

 子の曰わく、志士仁人は、生を求めて以て仁を害すること無し。身を殺して以て仁を成すこと有り。(先生がいわれた、「志しのある人や仁の人は、命惜しさに仁徳を害するようなことはしない。時には命をすてても仁徳を成しとげる。」)[衛霊公第十五]

 これは金谷治氏の訳ですが、小倉氏は、これを次のように解釈しました。
 先生がいわれた、「志のある士や仁の人は、肉体的な〈第一の生命〉を保全しようとして〈あいだのいのち〉を損なうというようなことはしない。自分の肉体を滅ぼしてまでも、〈あいだのいのち〉つまり〈第三の生命〉を立ち現すということがあるのだ」


 つまり、仁というのは、人の命そのもの(これを小倉氏は〈第一の生命〉と呼んでいます)よりも大事なものなのです。共同体や社会といった人為的な「つくりもの」の〈いのち〉(こちらは小倉氏が新しく定義した〈第三の生命〉です)の方に孔子は重きを置いていました。(ちなみに、〈第二の生命〉は、自然を超越した精神的・宗教的な生命をさします)





 孔子は、人と人とのあいだには隔たりがあることに気づいていたようです。だから、子貢が「一生の座右の銘とできる言葉は何でしょうか?」とたずねたときに、「其れ恕(じょ)か。己の欲せざる所、人に施すことなかれ。(まあ恕(思いやり)だね。自分の望まないことは人にしむけないことだ。)」[衛霊公第十五]と孔子は答えたのです。

 ここで思い出したのが、平田オリザさんのコミュニケーションに関する考え方でした。すなわち、新しいコミュニケーションの考え方は、「関係や場の問題」としてとらえるべきではないかと平田さんは言います。つまり、たとえば会社の中などで、ある人がうまくしゃべれないというような場面があった場合、その原因を個人にのみ帰するのではなく、その会社が話しかけやすい環境になっているのかどうかということに注意を向ける必要があるというのです。(平田オリザ『わかりあえないことから コミュニケーション能力とは何か』[講談社]



 考えてみれば、「関係や場」というのは、人と人のあいだにあるものです。孔子に言わせれば、ここには何もないのです。しかし、ある人(A)が別の人(B)のことを思いやり、その人(B)がしゃべりやすい雰囲気を作ってやれば、そこに「話しかけやすい環境」というものがたちあがってくるのではないでしょうか?





 平田オリザさんは「これからの時代に必要なもう一つのリーダーシップは、弱者のコンテクストを理解する能力だろう」と考えています。「社会的弱者は、何らかの理由で、理路整然と気持ちを伝えることができないケースが多い」のです。したがって、相手(B)が当たり前のコミュニケーションを取れない場合には、こちら(A)が歩み寄っていかなければならない場合が出てくるわけです。
 そうした上で、双方(AとB)が分かり合えたならば、おそらくそこに「仁」という〈あいだのいのち〉が立ち上がってくるのではないでしょうか?

 Aがいくら教養があって徳のある人であったとしても、Bが心を開けるような環境を作ることに配慮してやらなければ、AとBとの間には、〈あいだのいのち〉(すなわち仁)は立ち上がってこないのです。さらに、周囲の状況によっては、同じ言葉をかけても、仁が立ち上がることもそうでないこともありうるわけです。あるいは双方の体調、空腹感、前夜の夫婦げんか、出勤時に水たまりに足を踏み入れてしまった、などというささいな状況までが影響してくる可能性があります。
 相手により、また状況により、その場その場で対応を変えていかなければならないが故に、仁は偶発的で偶然性に支配されていると言えるのかもしれませんね。





 このように、仁というのは個人の内にあるものではなく、人と人とのあいだに立ち上がってくる〈あいだのいのち〉なのだ、と解釈し直したところが小倉紀蔵氏の凄いところなのです。

2013年12月30日月曜日

『論語』とは何か?

 この年末に、『論語』に関する面白本に出会いました。しかも二冊です。
 ・佐久協『21世紀論語 孔子が教えるリーダーの条件』[晶文社]
 ・小倉紀蔵『新しい論語』[ちくま新書]
の二冊です。

 『論語』というのは、孔子とその弟子たちの言葉を集めたもので、孔子自身が直接書いたものでありません。孔子の死後に弟子たちによってまとめられたので、孔子自身の言葉だけでなく、弟子たちの解釈なども入り混じっています。さらに、後の儒教の影響などを受けて、孔子本来の考え方がゆがめられて、今に伝えられている部分もあるようです。

 孔子がいた時代は、紀元前500年くらいですから、聖書が書かれるよりもずっと以前の言行録ということになります。この孔子とその弟子たちの言行録が現代まで読み継がれ、生きる上でのヒントにされていることはある意味、驚きです。

 『論語』には、毎日の生活において現代人でも指針とできるような気のきいた言葉がたくさんあります。「温故知新」「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」「巧言令色、鮮(すく)なし仁」「朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」「義を見てせざるは、勇なきなり」等々。
 これらの『論語』の言葉の断片だけを読んでも構わないのです。なぜなら、人に語って格好がいいからです。何しろ『論語』の言葉ですから、いかにも教養があるように見えてしまいます。『論語』にはそうしたブランド力があるのです。

渋沢栄一・守屋淳訳
現代語訳論語と算盤』[ちくま新書]

 かつて、明治時代に約470社もの会社を設立し、日本の資本主義の基礎を築いたとも言える渋沢栄一という人物がいました。彼は、『論語』の言葉をひきながら「利潤と道徳を調和させる」という自らの経営哲学を説きました。これが『論語と算盤』という書物でした。この『論語と算盤』は『論語』の解説ではなく、『論語』の思想に沿って自分の思想を語っています。

 佐久協氏の『21世紀の論語』も、これと同様の方法論で書かれています。
 佐久氏は、『論語』に出てくる「君子」という言葉を「リーダー」と解釈しています。佐久氏は、先の東北大震災と福島第一原発事故を経て、「戦後の日本を牽引してきた財界・政界・学会・官僚組織の四本柱のことごとくが崩壊し、もはや日本には未来はないとの悲観の声が聞かれた」けれども、「今や、わたしたち一人一人が、他人まかせにせずに弛みきった日本のネジを巻き直さねばならない」のだ、と主張しています。そして、『論語』を「危機脱出の手引き書」として読み直す試みに、『21世紀の論語』という本で挑戦しています。

 この本には、個人が組織人として生きていくために必要な自己管理や自己啓発法が、段階を経て具体的に提示されています。『論語』の解説ではなく、佐久協氏によるリーダーシップ論を述べた本なのです。

 一方では、2500年前に書かれた『論語』の時代を考慮しながら、『論語』が表そうとしている世界や精神に忠実に迫ろうとする試みをしている本があります。
 安田登氏の『身体感覚で『論語』を読みなおす。』[春秋社]は、論語が書かれた時代の文字、さらには孔子が生きた時代の文字にまで立ち返って、『論語』を読みなおしてみようという壮大な試みに挑戦しています。安田氏は、『論語』は、実は世界で最初の「こころのマニュアル」だったのではないか、と思いあたったのだそうです。

 何と「心」という漢字は、孔子が活躍するほんの500年前まではこの世に存在しなかったのだそうです。ところが、中国王朝が殷から周になった頃、ある日「心」が出現した。「その突然の出現に人々は戸惑い、「心」をうまく使いこなせないままに五〇〇年間を過ごします。そんなとき孔子が現れて、人々に「こころの使い方」を指南した、その方法をまとめたのが『論語』ではないか」—安田氏はそう思ったのだそうです。
 当時の文字から『論語』の解釈を試みると、ふだん流布している意味とは異なる『論語』の意味が立ち上がってきます。








 小倉紀蔵氏も、『論語』を斬新な切り口で見なおしています。小倉氏の『新しい論語』は、よく引用される気のきいた文言ばかりでなく、『論語』全体を読みなおして、しかも後の世にゆがめられた部分を排除して、孔子の思想そのものに迫ろうとしています。
 小倉氏は、孔子が理想とした「君子」を〈アニミズム〉的な教養をもった人間と考えました。小倉氏の言う〈アニミズム〉は、森羅万象すべてのものに神が宿るという一般的なアニミズムとは異なっています。「共同主観によって〈いのち〉を立ち現す世界観」を〈 〉つきで〈アニミズム〉と呼んでいます。

 少し分かりにくい概念なのですが、「君子」に対する「小人」というのを考えると理解の助けになります。「小人」は、つまらない人などという意味ではなく、〈汎霊論〉すなわち、森羅万象すべてのものに、唯一の霊=スピリットが浸透していると考える人で、シャーマンのような人物だと小倉氏は考えています。

 小倉氏は、こうした独自の言葉を定義しながら論を展開しているので、少し理解しにくいところもあるのですが、『論語』の新しい解釈をしているという点で、この『新しい論語』は、今年いちばんの目からウロコが落ちた本となりました。

 う〜む、時間切れでうまく凄さが伝えられそうにないな…
 ……続く、かな?
 

2013年12月29日日曜日

年末年始の9連休:麻酔科初の日当直体制へ

 本来御用納めの12月28日が土曜日だったので、京都市立病院は、28日から年末年始の休暇に入りました。また、本来は1月4日が仕事始めですが、来年の1月4日は土曜日にあたるため、これまた仕事始めは1月6日からとなっています。合計9連休の年末年始休暇となりました。

 通常の業務がないからといって病院の機能がストップするわけではありません。入院患者はいるし、臨時手術もあります。救急室に至っては、暮れも正月もなくフル稼働しています。
 麻酔科では、昨年までは年末年始の休暇は、待機制をとっていましたが、今年は、この9連休をすべて日当直でカバーすることにしました。院内に麻酔科医が1名居て、いつ緊急手術が入っても、すぐに対応できるようにしています。(今日も朝からSAHの緊急手術が入っていました)

 さて、京都市立病院の北館は、先日の医局の引っ越しの後、図書室・病歴室だけが残っているだけとなっています。北館6階にあった研修医・専攻医室が新しい医局へ引っ越してからは、空調も切られたのか、北館の入り口から建物に入ると、気温が外気と同じくらいにひんやりしています。
北館6階の廊下。左手にかつての透析センター
奥に、研修医・専攻医室がありました。

 来年2月に図書室・病歴室が引っ越しを済ますと、建物が取り壊されてしまうので、この北館の6階からの景色はいずれ見ることができなくなってしまいます。
 今朝も雪の朝となりました。北東にそびえる比叡山や街の向こうになだらかな壁を作っている北山も、うっすらと雪化粧をしていました。
朝日を浴びる雪化粧の比叡山。雲の帽子をかぶっています。

北山もうっすら雪化粧。北館6階の窓からの眺めです。

2013年12月28日土曜日

「想定外」を免罪符にするのはズルいのだ

 昨日は、大規模な避難訓練が手術室で行われました。「近畿圏で震度7という巨大地震が発生した」との想定で、手術中の患者さんを無事に一階まで避難させるというのがミッションでした。

 避難訓練では、地震を想定していましたが、実際の揺れはありませんでした。先の東北大震災時の麻酔科医の体験記を読んでいると、横揺れが来たときは、自らも手術台にしがみつき、転がっていきそうになる麻酔器を押さえるのに必死だったという報告がありました。
 点滴台や加温器などの器材、麻酔器などには、移動を助けるキャスターが付いています。麻酔器にはストッパーがついているのですが、ふだんは麻酔器を固定していませんから、横揺れがあれば、確かにゴロゴロと転がっていくでしょう。
ベアハッガー、点滴台
転がりますね…
麻酔器のキャスター
ブレーキをしないと転がりますね。












 また、避難訓練では、停電になる設定をしましたが、現在のドレーゲルの麻酔器には、LEDのライトが付いているので、手元を照らすことができます。今回の避難訓練では、このライトが使われた形跡はありませんでした。
 ちなみに、ドレーゲルの麻酔器の場合、停電になって電源の供給が途絶えても、しばらくは内蔵電池で麻酔器そのものは動きます。デスフルランの気化器も加温のための電源を必要としていますが、こちらも電源供給が途絶えてもしばらくは加温機能は働きます。
麻酔器パネルのLEDライトを暗闇で点灯したところ
Fabius Tiroでは、麻酔器前面の
「ランプ」がパネル用ライトのスイッチ












 災害時というのは、過去の例をふり返ってみても、必ず「想定外」の出来事が起きるものです。大きな災害が発生するたびに、この「想定外」という文句を聞きます。
 柳田邦男氏は、「想定外」とは何であるか?という問いに次のような結論を出しています。




 「『想定外』とは、結局、それ以上のことはないことにしようとか、考えないことにしようという思考様式に、免罪符を与えるキーワードではないか。これが私の結論です。
 つまり『想定外』という線引き行為は、安全性を補償するものではないし、むしろ安全性を阻害するものではないかと考えるわけです。」(柳田邦男『「想定外」の罠 大震災と原発』[文藝春秋]より

 なるほど。これなら、災害に対して万全の対策を講じていなくて、まさかの事態が起きても、「想定外でした…」と言い訳ができるわけですね。





 先の東北大震災では、岩手県釜石市にある、海岸からわずか1キロ地点の鵜住居(うのすまい)小学校と釜石東中学校の生徒たち約570人が、子どもたちの自主判断で即座に避難行動を開始して、無事に津波の難から逃れました。

 地震発生の瞬間、校舎には大きな被害がなかったため、小学生たちはとりあえず最上階の三階に集まりました。しかし、隣接する釜石東中の中学生たちはここでは危ないと判断して、校庭に飛び出しました。その様子を窓から見ていた小学生もつられていっせいに校外へ。中学生はその小学生たちの手を引いて、裏手500メートル後方の高台にある指定避難場所のグループホームに避難しました。しかし、そこでも危険だと判断した彼らは、さらに500メートル後方の介護福祉施設、果ては高台の国道45号線沿いの石材店まで退避しました。
 そして、津波は小中学校を飲み込み、グループホームも飲み込み、介護福祉施設の100メートル手前で止まりました。

 この地域では、明治、昭和と、何度か大きな津波を経験していますが、釜石市では教育委員会が普段から両校合同の訓練を行い、非常時にとるべき行動を子どもたちに徹底的にたたき込んでいたのだそうです。
 また、小中学生には「避難三原則」を徹底していました。その内容は、
 ①想定にとらわれない
 ②状況下で最善を尽くす
 ③率先避難者になる
というものでした。(以上、齊藤孝『100分de名著 学問のすゝめ』[NHK出版]より

 彼らが、「指定避難場所を超える津波は来ないことにしよう」とか「そういう大きな津波は想定外だ」などと考えていたら、全員津波にのみ込まれてしまっていたことでしょう。

 「想定外」を免罪符にするというのは、ズルいというよりは、もはや犯罪行為ですね。

 ところで、今日は朝から暖房を入れてもなかなか暖まらないと思って外を見ると雪がうっすらと積もっていました。寒いはずです。
 ニュースによれば、日本全国で雪が降り、近畿北部では大雪警報も出ていたようです。
今朝、家々の屋根や公園に雪が積もっていました。

西山も雪化粧でした。



2013年12月27日金曜日

新館手術室での初の避難訓練

 今日は仕事納め。
 臨時の手術が3件入りましたが、今日は午後から手術室の避難訓練がありました。

 今年は、
①新館手術室で、全麻下仰臥位での甲状腺癌手術中(標本摘出後、頸部郭清時に血管損傷して出血中)
②同じく、新館手術室で、全麻下側臥位での胸腔鏡下膿胸の手術中(剥離中に出血し、プローリンで縫合中)
③本館手術室で、早期胎盤剥離のため、脊麻下緊急帝王切開術中(ベビーは生まれて胎盤娩出中。出血が多く血圧は70mmHg台)
という手術設定でした。

 また、災害は、「近畿圏で震度7の大地震が発生。手術室内では火災が発生して、一部のドアが使用不可能となる。廊下には器材が散乱しており、本館側は照明が復旧せず」というもの。そして、今年のさらなるミッションは、「患者さんを手術室外に運び出すのみならず、1階まで降ろす」というもの。しかも、「地震のために、エレベーターは使用不可」という設定でした。
避難訓練前の状況説明
それぞれの患者さん役とスタッフ役は、各手術室でスタンバイします。
耳鼻科頸部郭清中
産科帝切中










呼外膿胸手術中


模擬手術進行中

 地震の発生後、室内の照明は消えます。復旧まではまっくらに。手術室内の全体の状況を把握して、麻酔科部長と手術室師長との協議で避難することが決定されます。それぞれのチームで工夫して、患者さんを外に運び出します。




 今年は、さらに階段を降りる、という難題が…


 訓練終了後は、ビデオを見ながら反省会。おつかれさまでした。


 助け出された産婦さんも、こんなに元気になりました。

2013年12月26日木曜日

今年は「破」の年。来年は…

 京都市立病院での最後のお仕事を終えて、Tk先生は東京へ旅立たれました。最終日の今日は、ナースからお花が贈られました。いろいろご指導いただき、ありがとうございました。
Tk先生、お疲れさまでした。
ナースを代表してTm師長さんからお花を贈呈。
Tk先生から麻酔科に菓子職人のお菓子をいただきました
ありがとうございます。東京でもお元気で!

 夜は、四条烏丸にある灯(AKARI)というおしゃれな店で、手術室の忘年会がありました。外科系の先生方や臨床工学士さんも交えて、麻酔科、手術室ナース共々、今年一年をふり返りながら歓談しました。

何と、あわびとホタテの盛り合わせまで登場しました

 料理は、コースメニューで運ばれてきたので、普段の忘年会とはちょっと違ったおしゃれな雰囲気になりました。今年の新人さんたちと、たまたまこの時期に麻酔科研修をしておられた研修医の先生方が、サンタの衣装でダンスを披露して下さいました。

 副院長の山本先生は、シメの言葉で、今年一年の手術室をひとつの漢字で表すと、「破」ではないか、とおっしゃいました。3月には新しい手術室が4室できて、麻酔科スタッフの数が以前の倍以上になり、手術件数も約1.2倍に増えました。その内の内視鏡手術については、前年の1.5倍に増え、今年の後半にはダ・ヴィンチが導入され、ロボット支援手術が始まりました。

 ふり返ってみれば、確かに、従来の市立病院のイメージ(殻)を「破る」勢いの変化であったと思われます。
 さて、来年は……どんな年になるのかしら?
 

2013年12月25日水曜日

酸素ボンベは何色ですか?

 クリスマスの色、というと何となく、赤と緑という印象がありますね。

 手術室の中でも、中央配管からのガスのアウトレットやパイプは、ガスの種類によって色分けされています。日常的に使っていると、ガスの種類と色のイメージがだぶってきます。緑色が酸素、青色が笑気、そして黄色が空気といった具合ですね。
 実は、これが落とし穴なのです…


 









 さて、麻酔科研修を終えた研修医の先生方への質問です。

   酸素ボンベの色は、何色でしょうか?

 これに即答できたら、あなたは麻酔科研修終了です。
 酸素ボンベの色は、緑?
 いいえ、酸素ボンベの色は、なのです。

麻酔器の裏にある酸素ボンベ:黒です

移送用の酸素ボンベ:やはり黒ですね

 緑と間違えた方は、おそらく中央配管のアウトレットや酸素のパイピングの緑色から連想されたのではないでしょうか?実は、医療ガスの中で、ボンベが緑色のガスは、炭酸ガスなのです。手術室内では、腹腔鏡手術などの際の気腹ガスとして、炭酸ガスが使用されています。
気腹装置についている炭酸ガスボンベ:緑

 かつて他院で、術後の患者さんをICUに搬送するときに、酸素ボンベと炭酸ガスボンベを取り違えてしまった事故がありました。術後の患者さんに炭酸ガスを投与したままICUまで移動する間に、一時心停止まで至ったケースでした。
 これは、酸素の緑色のパイピングからの連想で、緑色のボンベ(これは炭酸ガスです)をつないでしまったのが一因ではないでしょうか?

 麻酔科専門医試験問題にも、ボンベの色に関するものが出題されたことがあります。

「日本の医療ガスボンベについて正しいのはどれか。
 (1)酸素は緑色である。 
 (2)二酸化炭素は黒色である。
 (3)窒素はねずみ色である。
 (4)空気はねずみ色である。
 (5)亜酸化窒素は表面積の半分以上が青色である。」

 高圧ガスボンベの色は、高圧ガス保安法という法律で定められています。
 そこでは、酸素は黒、炭酸ガス(二酸化炭素)は緑、塩素は黄色、水素は赤、アンモニアガスは白、アセチレンガスは褐色ないし茶色、その他のガスはねずみ色、と定められています。
笑気ガスボンベの
バリエーション


 これにしたがえば、笑気ガスは「その他のガス」に分類されるので、ねずみ色でよいのですが、笑気の配管が青であることから、医療用の笑気ボンベは半分くらい青い色に塗られています。










今日のお土産
連休中に石川県まで越前ガニを食べに出かけたFm先生が、素朴な石川県のお土産を差し入れて下さいました。
 ありがとうございました。

2013年12月24日火曜日

ハリエ ガリガリ シュトーレン

 最近、お菓子の話が少ないと思われている方も多いかもしれませんね。で、今日は、お菓子の三題話、ハリエ、ガリガリ、シュトーレン、でございます。

 京都市立病院麻酔科では、歯科麻酔科医の先生方の医科研修を受け入れております。歯科麻酔科医の先生方は、首から下の手術の麻酔をお一人ですることは許されておりませんので、たとえば、アッペなどでも必ず医科の麻酔科医の元でなければ、麻酔ができないのです。
 しかしながら、口腔外科や歯科の手術といえども、麻酔科医が行う全身管理に関しては、注意すべき点はほとんど同様なので、歯科麻酔認定医、専門医の資格を得ようとする際には、医科研修が必須となるのです。
 来年からは、大阪歯科大のKn先生が医科研修に見える予定です。今日は、あいさつに来られて、CLUB HARIE(クラブハリエ)のお菓子をお土産にいただきました。
ありがとうございました。
左端のリーフパイは創業時からの定番菓子だそうです

 帰宅すると、大きな発泡スチロールの箱が宅急便で届けられていました。どうやら、以前、このブログでも紹介した遠藤功『言える化 「ガリガリ君」の赤城乳業が躍進する秘密』[潮出版]についていた、「アイスプレゼント」に当選したようでした。
 「抽選で50名様に赤城乳業のアイス詰め合わせをプレゼント!!」
 とありましたが、本当に当選するとは思ってもいなかったので、思わぬクリスマスプレゼントになりました。ありがとうございました。
 明日はクリスマスなので、近所の子どもさんたちにアイスを配ろうと思います。
気になるのは、BLACKとガツン、とミカンですね


赤城乳業の社員の方々。みんな笑顔が素晴らしい!
遠藤功『言える化』より

 さて、イブに取り置いていた、お楽しみのお菓子があります。シュトーレンです。毎年、いろんな店のシュトーレンを試しているのですが、今年は桂駅前の《オークフード桂店》のシュトーレンを手に入れました。
 シュトーレンは、クリスマス前に作られるドイツの伝統的なお菓子で、中にドライフルーツやナッツをふんだんに入れて、焼き上げられています。ドイツでは、クリスマスを待つ間、薄くスライスして、少しずつ食べていくそうです。時間が経つほど味がよく馴染んでいくのだとか。
ドイツ語のstollenは、坑道とか柱という意味。
断面は、雪をいただいた山のようにも見えますね。

2013年12月23日月曜日

「神を信じることは素晴らしい」という命題について

 もうすぐクリスマス。キリスト教では、クリスマスはイエスの誕生日とされて、毎年盛大なお祝いがされています。

 キリストは、神の御子として乙女マリアから生まれました。最期は十字架に架けられましたが、三日後に復活して、永遠の命を授かりました。「父と子と精霊」の三位一体説にしたがえば、イエスも神と同等の存在なのです。

 クリスチャン以外の人々は、神を信じる人々に対して、神が実在するかどうかなんて分からないじゃないか、と思うかもしれません。そして、それらを信じる人々に対して、「実在するかどうか定かでない神を信じて生きるなんて、愚かなことだ」と言うかもしれませんね。

 ここで気をつけなければならないのは、ふたつの命題を区別することです。
 「神が実在する」という命題は、「科学的命題」と呼ばれています。神が実体をもった存在であるかどうかは、事実にてらして調べるべき問題です。


 一方、キリスト教の信者さんたちが、「神を信じることは素晴らしい」と思うことは、「価値的命題」なのです。つまり、神が実在するしないにかかわらず、神を信じるというのは一つの立場であり、それはそれで一つの価値観なのです。
 この立場に対して、そうした価値観をとらない人が、先のように「愚かなことだ」と批判することはできるし、そうした批判をするのは自由です。でも、これは価値観の対立だから、どちらが正しいか、という問題ではないのです。









安斎育郎『科学と非科学の間 
超常現象の流行と教育の役割
(かもがわ出版)


 人々が、それぞれの価値観にもとづいて神を「信じる」も「信じない」も、それは各人の完全な自由であって、科学がとやかくいう筋の問題ではないのです。
 以上は、立命館大学教授の安斎育郎先生のコメントです。(安斎育郎『科学と非科学との間』[かもがわ出版]より

 医療の世界には、民間療法というのがあります。「この民間療法に治療効果があるかどうか」というのは「科学的命題」であって、検証しようと思えばできることです。
 しかし、その民間療法は効果があると信じて、患者さんが自分の治療に取り入れている場合、医療従事者は、「効き目がないからやめたらどうですか?」と安易に言えるでしょうか?
 プラセボ効果というのがあるかもしれません。また、頭ごなしに否定した場合、患者さんが治療に参加しようとする意欲にも影響を及ぼすかもしれません。
 だから、「その民間療法が自分には効くのだ」と信じて取り入れている患者さんに対しては、それをエビデンスがないからと、否定するわけにはいかないのです。なぜなら、「その民間療法が自分には効くと信じている」というのは、その人にとって「価値的命題」だからなのです。

2013年12月22日日曜日

チェインリアクションとチェンジモンスター

 整形外科の股関節全置換術などで用いられる、いわゆる骨セメントは、ポリメチルメタクリレート(PMMA)という物質の重合反応を利用して作られています。

 PMMAは、メチルメタクリレート(MMA)という物質が連鎖重合してできたアクリル樹脂です。図の赤い二本線のところが二重結合になっていますが、ここをフリーラジカルなどの物質が攻撃すると、一本の鎖がはずれます。この外れた鎖の両端もまた、フリーラジカルになっているので、それぞれが別のMMAの二重結合に攻撃をしかけるのです。
 こうして、どんどん反応が進んでいって、MMAが長くつながった高分子のPMMAが重合されるのです。

 実際の手術のときに、褐色のアンプルに入って、芳香を放っているのがMMAで、白い粉状になっているのが、ある程度の長さにあらかじめ重合されたPMMAなのです。
 で、白い粉の方に重合開始剤が入れられていて、これが、いったんMMAの二重結合を攻撃してフリーラジカルを作ると、そこからどんどんチェインリアクションが進んでいくのです。


 そして、このチェインリアクションは、一番端のフリーラジカルにたとえば水素原子などがくっつくと反応が止まります。人為的にチェインリアクションを停止するために使う物質のことは、ターミネーター(重合停止剤)と呼ばれています。

 さて、化学の世界ではターミネーターのような存在がないと、いつまで経ってもチェインリアクションがとまらず、大変なことになってしいます。ところが、人で構成する組織を変革していこうとする際に、こうしたターミネーターのような存在は、しばしば邪魔者となります。

 ジーニー・ダック『チェンジモンスター なぜ改革は挫折してしまうのか?』[東洋経済新報社]によれば、組織を変革していくのは、一直線にはかなわず、山あり谷ありの「チェンジカーブ」(企業変革カーブ)を通ると言います。そして、その途中にはチェンジモンスター(変革をかきまわす怪物)が潜んでいるのです。
チェンジカーブとチェンジモンスター

 ジーニーによれば、組織変革を進めているときに、さまざまな抵抗に遭うが、その中でも気づかれないことが多いが、非常に重要な意味をもつのが組織内の感情的な側面なのだそうです。


 この感情とは、恐怖、好奇心、疲労、忠誠、偏執、落胆、楽観、激怒、驚き、喜び、愛情などの、より本質的な心のあり方をさしています。
 たとえ、管理運営上のあらゆる数値や情報を把握していても、組織内部の感情面に関するデータをつかんでいなかったら、企業を立ち直らせることはできないのだそうです。「感情」は、売上高や経常利益など「目に見える」数字と同様、組織の状態を示すうえで意味のある「データ」であると考えるべきなのです。

 組織を変えるということは、本質的かつ不可避的に、人間の感情にかかわるプロセスなのですね。そして、この感情をもつのは人ですから、チェンジモンスターとは、結局は、人間関係のもつれ、と言い換えてもよいかもしれませんね。
 組織の変革を遂行するためには、こうしたチェンジモンスターとの闘いは避けられないようです。