2013年5月3日金曜日

ヘタウマ医者は成り立つか?

 山藤章二さんの『ヘタウマ文化論』(岩波新書)を読みました。

 かつて、上達するというのは「ヘタ」な所から「ウマイ」所へ上ってゆくことだったが、いつの頃からか、この二極の道とはまったく別の「オモシロい」という極が出現してきた、と山藤さんは分析しています。
 つまり、一芸に秀でるために一所懸命に修行に励むのではなく、大衆受けする「オモシロい」という判断基準にしたがうことによって社会に受け入れられる「芸」ないしは「芸術」が出現してきたというのです。
 この、「ヘタ」だけど「オモシロい」というジャンルを「ヘタウマ」と呼んでいます。

 この第三極の「ヘタウマ」は、つまりはあまり努力せずとも到達できる地点です。一般の素人がちょっと面白い絵を描いたり、芸をして、それがマスメディアでもてはやされると社会的に認知されるというのは、「ヘタ」に寛容な日本文化の特徴だ、と山藤さんは説いています。でも、海外でもたとえばクラシック・プーさんの絵などは「ヘタウマ」に分類できるような気がするのですが、いかがでしょうか。
ヘタウマ医者は成り立つか?

 それはさておき、医者の世界で、この「ヘタウマ」というのは成り立つでしょうか?

 医者の世界では、「オモシロい」というのは第三極の判断基準としては不適切でしょう。でも、たとえば、患者受けするという視点から、「よく話を聞いてくれる」とか「やさしい言葉をかけてくれる」という極を設けたらどうでしょう?

笑福亭鶴瓶さんが主演した『ディア・ドクター』という映画では、鶴瓶さんが医師免許を持たずにへき地で診療を続けている「ニセ医者」を演じていました。胃癌の患者を前にして立ち尽くし、気胸の患者にトロッカーを挿入することすら思い浮かべられませんが、村人からはけっこう慕われる「医者」でした。


 この映画の医学監修を担当した太田祥一先生は、「往々にして外見、口調など患者が感じることと実際の医者の能力は違うのである」と述べています。(太田祥一編著『「本物(プロ)」の医療者とはなにか − 映画『ディア・ドクター』が教えるもの』(へるす出版新書)より


 医者の場合、点滴や診断はたよりないけれども、患者の話をよく聞いてくれる医者を「ヘタウマ」と称してよいかもしれません。でも、これが自らの知識を更新し、技術を磨く努力を怠る言い訳としての「ヘタウマ」であったとしたら、医のプロフェッショナリズムの観点からして、許されるものではないでしょう。
ピカソの落書きみたいなハトを模写してみたことがありますが
とうてい真似できませんでした。

 晩年のピカソの絵には、手抜きのマンガみたいなものがありました。しかしながら、サラッと描かれた絵でも、模写してみると、これがなかなか真似できません。
 このピカソの「ヘタウマ」さは、それまでの的確なデッサンや彩色技法に裏づけされた「ヘタウマ」さなので、素人には真似できないようです。

 山藤章二さんも「ウマさを志した人間」や「ウマい技術を身につけた人間」が、「ヘタに見える絵」を描くことは非常にむずかしいけれども、「ヘタ」さの自由、楽しさ、自己開放の快感を知ると、やめられない、とも言っています。
 このように、一度頂点を極めた者が、意識して「ヘタウマ」を目ざすというのは、一般の素人がたまたま大衆に受けてもてはやされる「ヘタウマ」とは一線を画しているようですね。

 医者の場合も、やはり目ざすべきは知識と技術の最高地点で、そこを極めた後に、患者の地平まで戻って、患者が理解できる言葉で説明し、個々の患者を一個の人格として尊重しながら応対ができる、という「ヘタウマ」さが理想の姿かもしれませんね。