2014年3月17日月曜日

サエちゃん、はや三ヶ月

 今日は、昼休みに、Mw先生がお子さんを連れて病院を訪ねて来てくださいました。

 昨年の12月に無事に出産されて、お子さんは咲笑(サエ)ちゃんと命名されました。医員室には、たまたま「おじさん」ばかりが集まっていましたが、見知らぬおじさんたちに囲まれても、サエちゃんは泣きもせず、お利口さんにしていました。(小児科のテキストによれば、「知らない人を意識し出す」のは5ヶ月を過ぎるころから始まるので、今はまだ「おじさん」に囲まれても大丈夫のようですね)

 Mwは、産休明けで、6月から麻酔科に復帰される予定になっています。

 京都市立病院では、目下、北館の解体工事の準備が着々と進められています。北館の南側は、すでに防音用のシートに覆われています。
この北館には、かつて整形外科の病棟とリハビリ室がありました。今日、股関節の手術を前に麻酔科の術前診察に来られた患者さんで、以前、反対側股関節の手術をされたときに、北館に入院されていた方がいらっしゃいました。
 「今度入院する4月には、前に入院してリハビリに励んだ北館が取り壊されるのですね」と、少しさびしげに話されていました。
取り壊しをひかえた北館。
この1階にリハビリ室、3階に整形外科病棟がありました。

2014年3月14日金曜日

三月は去る…

 三月は年度末。この季節は、病院を去っていく方々が多くて、少し淋しい季節です。

 ナースのKwさんは、今日が最後の当直。夕飯はつる庵の、出汁のきいたカツカレーでした。
つる庵の出汁のきいたカツカレー

 泌尿器科のIt先生も、この三月で京都市立病院を退職されて、新たな職場に移られます。夕方、休憩室では、ウロ係のOmさんが、It先生のお餞別にプレゼントするフォトアルバムを制作中でした。
撮り貯めた写真を切り貼りして世界でひとつの
フォトアルバムを制作中

 It先生は、京都市立病院では、前部長時代には、間質性膀胱炎に対する膀胱水圧拡張術を数多く経験され、現部長が来られてからは、内視鏡手術、ロボット支援手術の手技をマスターされました。温厚で物静かな先生でした。おつかれさまでした。
ダ・ヴィンチと格闘中のIt先生(右端)

Yd先生と二人で腹腔鏡下副腎腫瘍摘出術に取り組む
It先生(右端)


今日のサプライズ

 今日はホワイトデー。バレンタインデーにチョコレートをもらった男性諸君は、お返しに忙しい日だったに違いありません。
 ホワイトデーなのに、なぜか麻酔科には、外科のKb先生から手作りのブラックココアケーキが届きました。一ヶ月遅れのバレンタイン?
 甘さをひかえた上品なケーキでした。
ありがとうございました。
食べやすく、最初からスライスされていました

ナースにも同じケーキが届けられていました。
Kb先生は、いったいいくつケーキを焼いたのかしら?

2014年3月8日土曜日

退職後は被災地へ:早川克己先生退職記念祝賀会

 今日は、夕方から、京都市立病院放射線科部長の早川克己先生の退職記念祝賀会に出席しました。現役医師ばかりでなく、放射線科医師OBに放射線技師さんやナースも参加して、総勢100名規模のすてきな祝賀会になりました。
会場は、ホテルグランヴィア京都
写真は、京都駅側から見た
京都タワーです。

 早川先生は、京都市立病院で33年間、放射線科医として活躍されました。その間、とくに若手の教育に力を注がれ、優秀な放射線読影医を育てて来られました。
胸にコサージュをつけた直後の早川克己先生です

 早川先生には三つの信条がありました。

 一、速く、沢山、大声で
 一、一日一論文
 一、読影するときは、自分の親の写真と思って読影せよ

 早川先生は、朝早くから病院に出勤されて、前日までのすべての撮影フィルムに目を通していたそうです。外科手術になった患者さんでは、術後の摘出標本とつき合わせて、術前の診断をふり返っていました。
 一日に一つ論文を読むという習慣は、2009年頃から続けておられて、その内二年間は、「一日一論文」の目標を達成されたそうです。
 毎日自転車で通勤され、病院ではいつも階段を利用していたのがプチ自慢。(33年間で、エレベーターを利用したのは、おそらく10回未満とのことだそうです)
研修医二年目のKk先生(左)は、早川先生の指導を受けて
放射線科医を志す決意をされました。

 退職後、早川先生は、先の東北大震災で津波の被害にあった岩手県釜石市の病院に、単身赴任で勤務をされることになっています。建物や器械はあるのに医師がいないという状況を知り、退職後は被災地の医療に貢献をしたいと思われたのだそうです。
横断幕の文字は、いつの間にか
「退職」から「就職」に!
四月からは、岩手県釜石市の病院で活躍されます。
放射線科での日頃の看護は、救急室のナースが
担当しています。


早川克己先生、いろいろ教えていただき
ありがとうございました。

2014年3月4日火曜日

誕生日は昭和天皇と同じに?

 ナースのKsさんが明日から産休入りとなります。今日が産休入り前の最後の出勤でした。予定日は4月29日で、予定通りの出産になると昭和天皇と同じ誕生日となりますね。

 アメリカの小児科医・助産師であるキャスリン・トービンさんは、子育てについて、こんなアドバイスをしています。

 「遊んでいる子どもを観察していると、その子の声や態度、言葉、習慣のなかに、親の姿が見えてくるはず。あなたの態度やものの見方、信念、もの腰は子どもに伝わるのです。
 親が自分の行動に気をつけるようになれば、子どもは問題を的確に把握する力がつき、自分の信念や価値観、目標と一致した行動が取れるようになるでしょう。
 自分の行動をふり返るには、こんな方法を試してください。まず公共の場にいる自分を想像し、『他人の目があるところだったら、自分はこんな行動を取るだろうか』と問いかけてください。人前でそんなことはやらないなと思ったら、すぐに態度を改めましょう。
 このやり方には、自分の反応や思考過程を正常に保ち、落ち着きを取り戻す効果があります。これを習慣にすれば、今後の人生にも役立つはずだし、子どもへの貴重な贈り物になるかもしれませんよ。」

 子育て、というと、とかく子どもの行いに目が行きがちですが、まずは自分自身の立ち居振る舞いに注意をはらいましょう、ということでしょうか?

 「子どもにとって親以上の大人はいないことを忘れないでいてください。役に立つ意見を言う専門家はたくさんいることでしょう。でも子どもにとって、いちばん効き目があるのは、あなたの意見なのです。
 どうか自分を信じてください。親は世界の誰よりも子どものことを知っています。その知識を使って子どもの可能性を引き出してください。そうすれば、子どもは親のいちばんいい部分を受け継いでくれるようになるでしょう。」


2014年2月28日金曜日

北の国からようこそ京都へ

 昨日、木曜日から京都国際会館でICU学会が開催されています。その合間をぬって、学会に参加された北大の森本教授が、京都市立病院の手術室の見学に来られました。
右端が森本教授。新館の手術室を見学中。

 来年度から、麻酔科専攻医のプログラムが大きく変わろうとしています。京都市立病院には心臓外科がないので、本院だけで麻酔科研修をした場合、心臓麻酔を経験することができません。そのため、京都市内の大学や東京医科歯科大、北大とも提携を結んで、専攻医が心臓麻酔のトレーニングができるような方向を、目下検討しています。

 北大は、その提携施設のひとつとしてご協力をお願いしています。北大は、北海道の広域から患者を集めているため、小児の心臓外科だけで、年間200例くらいの症例数があるそうです。近い将来、北の大地の大学で胸を借りて、心臓麻酔のトレーニングができるようになる日が来るかもしれませんね。

今日のお土産

 北大の森本教授から、六花亭のお菓子の詰め合わせと札幌農学校のクッキーをいただきました。
 ありがとうございました。


2014年2月24日月曜日

森田正馬との再会

 大学の教養課程時代に、ぼくと同じ工学部の合成化学科に在籍していたHt君から、森田正馬(もりたしょうま)の本を紹介してもらったことがありました。

 彼は、一浪して京大の工学部に入りましたが、学部を卒業すると関西医大の医学部に再入学しました。ぼくが、その後医学部に行こうと思ったのは、多分に彼の影響もあったかもしれません。
 Ht君は、工学部の学生であった頃から、森田正馬や神谷美恵子の本を読んでいて、ぼくにも紹介してくれたのでした。

 森田正馬は、明治から昭和にかけて活躍した精神科医で、神経症の治療に関して、いわゆる「森田療法」を確立した医師です。この「森田療法」は、薬物を一切使わず、行動療法を主体とする、といった点で、西洋医学とは一線を画していました。
 ぼく自身は、自分では神経症ではないと思っていましたが、学生時代に「森田療法」に関する本を読んで、生きていく上で大いに参考になったのを覚えています。

 そして、先日、たまたま書店で帚木蓬生『生きる力 森田正馬の15の提言』[朝日新聞出版]という本に出会い、森田正馬に「再会」しました。帚木蓬生氏は、東大文学部を卒業後、九大医学部で医学を修めた精神科医ですが、小説家としても活躍されています。
 帚木氏は、森田正馬の論文の中から15のキーワードを抽出して、森田正馬の考え方を分かりやすく解説しています。読み終えてみて、ぼく自身の考えが、森田正馬の考え方にいかに大きな影響を受けていたかを再認識させられました。

 森田正馬は、心とか感情というのは、かげろうのように移ろいやすく、長続きもせぬくせに、くり返しくり返し反復刺激していると、強化されるものだと指摘しています。
 落ち込んだり、気が進まない、あるいは何かをするのに不安を感じる、とかドキドキハラハラするといった心の動きは、人間である以上しごく当たり前のことで、それを矯正しようと考えてはならないのです。そういう感情をそのまま受け入れて、目的とすること(たとえば、勉学であったり、仕事であったり、あるいは人前でのスピーチであったり)を実行しなさい、と森田正馬は勧めています。
 宮本武蔵が言うような「平常心」など凡人には持てるわけがない。人前に出れば、顔が赤らみ、足がふるえるのが当たり前で、それをいつもと変わらぬ「平常心でいなければならない」などと考えるからますますあがってしまうのだ、と説きます。

 人以外の事物は、例外なく「あるがまま」に存在しています。山海草木、牛や馬、セミやクワガタムシも「あるがまま」に生活しているのです。
 「人だけが、自分の身体の状態、精神の状態、対人関係、行動の状態に絶えず注意を向けています。頭重感、めまい、耳鳴り、吐き気、動悸が自分の身体に生じるとこれは一体何だろうと不安になります。病気の知識が多少なりともあれば、何かの病の兆候ではないかと一層心配になるのです」と帚木氏は言っています。
 ここに働いているのが、「はからい」という精神作用であり、これが「あるがまま」の対立概念だとして、森田正馬はこれを嫌いました。彼は、「はからい」を「人生を曇らせ、症状や気がかりを増強する元凶だと喝破した」のでした。

 「森田療法」の第一期ではひたすら絶対臥褥(ずっと臥床し放しで、食事と用便、洗顔、入浴のときのみ起きるのが許されます。もちろん誰とも口をきいてはいけません)が一週間から十日間続きます。
 第二期の軽作業期には、「他人との会話は許可されず、庭の観察、古事記の朗読」などが日課として課せられます。自分の内にではなく、外に関心を向けるようにしているのです。今の患者の心がどのようであるとか、過去のトラウマがどうであるか、などは一切問われません。
 この軽作業期を経て、第三期の重作業期に入ると、患者は新しい入院患者の世話にいそしみます。障子張り、炊事、配膳や風呂当番、鶏小屋の世話や庭掃除を担当します。この時期になって、ようやく患者同士の会話が許されます。しかし、ここでも常に患者の目は内にではなく、外に向けられるようにされています。
 最後の第四期は、いわば社会復帰期で、買い出しに出たり、家への外泊を試みます。このすべての期間が約40日。この間、投薬は一切ありません。
 これが、驚くべき治療効果を上げていたのだそうです。

 あとがきで、帚木蓬生氏はこう言っています。

 「知性をさずけられた人という存在は、誰しもが大なり小なり神経質の傾向を有しています。つまり森田正馬の考え方は、万人におしなべて通用するのです。」

2014年2月22日土曜日

三人の芸術家の仕事ぶり

 井上雄彦。手塚治虫。そして、パブロ・ピカソ。
 この三人の芸術家の仕事ぶりを描いた、漫画ないしDVDがあります。

 井上雄彦は、高校バスケットボールの世界を描いた《スラムダンク》で一世を風靡した漫画家ですが、現在は、吉川英治原作『宮本武蔵』をベースにした武蔵の生涯を描く《バガボンド》の連載を続けています。
 その井上雄彦が、本業の漫画制作の傍らたずさわった、テレビのコマーシャル撮影やニューヨークの書店での壁画作製、スラムダンク発行部数1億冊を記念して行われた、高校の全教室の黒板にスラムダンクの漫画を描くイベントを映像に収めたDVDが《INOUE TAKEHIKO OTHER HAND》です。

 《バガボンド》は、連載の途中から、ペンを毛筆に変えて描いているそうです。テレビのコマーシャルのための絵も大きな毛筆で一気に書かれていました。書店の壁画も、下書きなしの黒一色の墨で描かれています。その創作過程を見ていると、絵というよりも書に近い感じがしました。

 手塚治虫は、「漫画の神様」とも称される日本の代表的な漫画家でしたが、1970年代にはアニメーションの仕事が破綻して、虫プロダクションが倒産に追いこまれた時期がありました。そのどん底の状況を救ったのが、《ブラック・ジャック》でした。《ブラック・ジャック》のヒットをきっかけに虫プロは復活したのでした。


 この《ブラック・ジャック》の創作時期を中心に、手塚治虫の仕事ぶりを描いたのが、宮崎克・原作/吉本浩二・漫画《ブラック・ジャック創作秘話》[秋田書店]です。
 手塚治虫は、一回の話を描く前に、3〜4つのストーリーを考えていて、原稿を取りに来た編集者たちに語って聞かせて、どれが一番おもしろかったか、と尋ねていたそうです。
 また、一度は断念していたアニメーションも、24時間テレビでの放映をきっかけに復活させましたが、このときもほとんどの場面について、「リテイク!!」と、描き直しを指示していたそうです。完成して放映された後にも「全部リテイクです!!」と言って、再放送の予定もないのに、数ヶ月かかって直した、という逸話もあるそうです。

 手塚治虫の場合は、おそらく頭の中にすでに完成品があるので、締め切り時間に追われながら、それらを二次元の紙の上に表現するのに苦しんでいた、といった印象がありますね。何人もの助手スタッフに対しても、自分のイメージどおりの表現となるように、細かく要求を出していたようです。

 そして、パブロ・ピカソ。
 《天才の秘密 ミステリアス ピカソ》(1956年/フランス)では、ピカソの絵の創作過程がカメラに収められました。監督・脚本・編集は、フランスのサスペンス映画の巨匠アンリ=ジョルジュ・クルーゾー。

 第一の手法は「画紙に色を透かすイングで絵を描き、紙の向こう側から純粋に創作のすべてをカメラに収録」する方法でした。しかし、ピカソは「これでは表面的すぎる。油絵をやろう。絵の下にある絵も見せなければ」と言って、第二の手法が採用されます。これは「ピカソとキャメラを同じ側に置き、油絵を数タッチ描く毎にキャメラがその主要な段階を記録する」というもの。この撮影のために、ピカソは1時間に100回以上も立ったり座ったりをくり返したそうです。

 DVDの最後に出てくる大作〈ガルーブの海岸〉が完成するまでの過程は、圧巻です。最初の基本的な構図は辛うじて残しつつも、色や形が次々に変容していく様子を見ていると、ピカソの想像力と創造力は底知れない、と思い知らされます。

 この映画の中でピカソが描いた20点に及ぶ絵は、もう、この映画にしか存在しないということなので、今ではこのDVD自体がピカソの作品のひとつとなっています。
 
 さて、この三人の芸術家の創作態度は、三者三様なのですが、あえて共通項を見つけるとすれば、何でしょうか?
 陳腐かもしれませんが、好奇心と情熱、といったところでしょうか?

今日の笑顔

 Kiさんは、かつて、北館にオペ室があった時代に、手術室ナースとして活躍されていました。いったん京都市立病院を退職した後は、他院の内科病棟で勤務されていました。
 そして、京都市立病院に再就職されたときには、再び手術室の勤務となりました。ブランクの間には、腹腔鏡による外科手術が主流となり、手術の内容自体、すっかり変わってしまっていたそうです。
Kiさんは、この三月末で、京都市立病院を退職されます。
長らく、ありがとうございました。

2014年2月21日金曜日

幸せの新しいものさしを求めて

 金井真介さんは、渋谷区外苑前で「ダイヤログ・イン・ザ・ダーク」(DIALOG IN THE DARK)というプロジェクトを主催しています。直訳すると「暗闇の中での対話」ですね。

 これは、真っ暗闇の中で会場内を歩いて回る、という企画です。ふだん視覚にたよって生活しているわれわれが真っ暗闇の中に置かれると、どういう気持ちになるのか、ということを体験する場です。
博報堂大学幸せのものさし編集部
『幸せの新しいものさし』[PHP研究所]
金井真介さんが変えた「感覚のものさし」
の話は、この本の中に出ています。

 金井さんは、かつて、ローマで開催された「ダイヤログ・イン・ザ・ダーク」イベントに参加したとき、グループからはぐれて、暗闇の中で迷子になってしまったことがあるそうです。
 遠くに人の声は聞こえるけれど、どう歩いてもそっちにたどり着けなくて、すごく心細い思いをしながら、手探りで歩いていました。すると、急に左右から二人のスタッフが現れ、みんなの所に連れ戻してくれたのだそうです。金井さんは、スタッフは暗闇で赤外線を感知する暗視ゴーグルでもつけているのだと思っていたそうです。



 ツアーの後、迷子になったときに左右からレスキューにあたったスタッフも、実は視覚障害者であったことを知って、金井さんは愕然としたそうです。
 ツアーのガイド役の人が視覚障害者であることは最初から知っていたのですが、途中でレスキューに現れたスタッフの動きがあまりに自然で、金井さんはてっきり別の健常者のスタッフだと勘違いしていたからでした。



 「自分よりハンディのあるはずの人に助けられた、という体験は衝撃でした。完全な暗闇という特殊な状況の中では、ふだん、健常者と呼ばれる人がここまで不自由で、逆に障害者と呼ばれている人がここまで自由になれるものなのか、と」

  この体験を通して、金井さんは考えました。
「人は『立場』で生きている。社会とは『立場』と『立場』の関係性だ。だから社会の中では人は『立場』がないと生きられない。だが、環境が変われば『立場』もたやすく変わる。『上下』の関係性が一瞬で逆転することもある。実は、それくらい『立場』というのは相対的な存在なのだ。しかし普通はそれを絶対的なものとして、疑うことがない。
 では、その『立場』を取り去ってみたときに残るものは何か。『立場』を持たない『私』という人間、あるいは『あなた』という存在の本質は何なのか。そのとき『私』と『あなた』の間にはどんな関係性が成立しうるのか?」

 そして、ローマでの暗闇での体験から、金井さんが出した答えは、こうでした。

 「それは自分で暗闇をつくってみることでしか分からない」


 『立場』を絶対視するような見方をしてしまうと、ある『立場』は別の『立場』よりも偉いとか劣っているなどと思ってしまいがちです。
 こういう態度のことを上品な言葉で表現すると、「目くそ鼻くそを笑う」と言います。目くそは鼻くそのことを自分より劣っていると思って笑っているのですが、その目くその態度を離れた所から見ている人からすれば、どちらも同じようなものじゃあないか、と滑稽に見えてくるのです。

 しかし、どちらも同じようなものさ、という態度では、まだまだ物足りないかもしれません。相手に敬意をはらい、礼をつくして初めて、フラットな関係性が形成されたと言えるのではないでしょうか。
 たとえば、暗闇で迷ったとき、助けてくれた視覚障害者に対してわたしたちはどう思うでしょうか?「ありがとう。あなたのおかげで助かりました。」と感謝の意を表すのではないでしょうか?
 明るい場所に出て、相手が視覚障害者であったと知ったとき、その言葉を撤回する人が果たしているでしょうか?どんな場所、どんな相手であっても、フラットな関係性を意識していれば、恒に敬意を払い、礼をつくせるのではないでしょうか?

 「自分で暗闇をつくって」みれば、それぞれの『立場』に関係なく、フラットな関係性が形成されて、お互いに礼をつくせるような気がするのですが、いかがでしょうか?

2014年2月19日水曜日

一年目、トリをつとめるローテータ—

 今週から、一年目研修医の最後のローテータ—、Ym先生が麻酔科研修に来られています。これから、6週間にわたって、麻酔科研修をされる予定です。

 月曜日は、ロボット手術二例につきましたが、ほぼ見学。昨日は当直明けで、今日は全麻一件、脊麻二件と大活躍でした。
 どうぞ、よろしく。

 Ym先生は、学生時代は、バスケットボール部に所属していました。いわゆるスラムダンク世代です。ポジションは、ガードですから、宮城リョータのファンだったのでしょうか?

2014年2月18日火曜日

おてんとさまに顔向けできねぇ…

 昨日紹介した、脳外科医エベン・アレグザンダーの『プルーフ・オブ・ヘブン』を読んでいて、もうひとつ気になったのは、臨死体験で記憶に残った「不思議な世界」=「現実の世界を超えた超自然的な存在」ととらえている点でした。


 確かに、臨死体験から、この世の現実世界以外の「世界」ないしは「存在」に気づくという人はいるようです。
 『生きがいの創造』シリーズで知られた飯田史彦さんも、脳出血時に経験した臨死体験の際に「まぶしい光たち(高次の存在)」ないしは「究極の光」から「物質や理論の束縛から離れて、真に人を救う方法について研究し、実践し、出逢う人々に直接伝えなさい。」というメッセージを受けとったと言っています。




 キリスト教的世界観では、どうしても現実の(物質的な)世界に対して、天国や精神的なもうひとつの世界があるという二元論的な世界観に支配されてしまいがちです。もっとも仏教でも浄土思想という、死後の世界を考える流派もありますが、原始仏教では、実はあの世については触れていません。
 道元は、「生死(しょうじ)のうちに仏あれば生死なし」と言って、二元論的な考え方を否定しています。つまり、すべてのものに仏性(ぶっしょう)があり、これは普遍で、今のこの世は、その仏性の顕れのひとつに過ぎないという考え方なのですね。

 禅宗の内山興正氏は、この「仏」のことを「天地一杯」と文学的に表現しています。

「花の色も、花の生命も、実は『天地一杯』のところから来るのだ。それも忽然として来る、あるいは忽然として去る。…よく考えてみると、もともと私もあなたも、一切のものが天地一杯のところから来ている。天地一杯の生命に生かされているということです」内山興正『正法眼蔵 生死を味わう』[大法輪閣]

 内山氏は、「生死」と題する詩も作りました。
 「手桶に水を汲むことによって/水が生じたのではない/天地一杯の水が/手桶に汲みとられたのだ/手桶の水を/大地に撒(ま)いてしまったからといって/水が無くなったのではない/天地一杯の水が/天地一杯のなかに/ばら撒かれたのだ/人は生まれることによって/生命を生じたのではない/天地一杯の生命が/私という思い固めのなかに/汲みとられたのである/人は死ぬことによって/生命が無くなるのではない/天地一杯の生命が/私という思い固めから/天地一杯のなかに/ばら撒かれたのだ」

 釈迦(ブッダ)と同時代を生きた孔子は、「怪力乱神を語らず」(怪異と暴力と背徳と神秘とは、口にされなかった)[述而第七]と言いながら、『論語』の中では、ときどき「天」という言葉を使っています。

「夫子これにちかって曰く、予が否(すまじ)き所の者は、天これを厭(た)たん、天これを厭たん」(先生は誓いをされて「自らによくないことがあれば、天が見すてるであろう、天が見すてるであろう」と言われた。)[雍也第六]
「子の曰く、我を知ること莫(な)きかな。子貢が曰く、何すれぞそれ子を知ること莫からん。子の曰わく、天を怨みず、人をとがめず、下学して上達す。我を知る者はそれ天か」(先生が「わたしを分かってくれるものがないねえ」といわれたので、子貢は〔あやしんで〕「どうしてまた先生のことを分かるものがないのです」といった。先生はいわれた、「天を怨みもせず、人をとがめもせず、〔ただ自分の修養につとめて〕身近なことを学んで高遠なことに通じていく。わたしのことを分かってくれるものは、まあ天だね。)[憲問第十四]
…etc.

 そう言えば、日本には、昔から「おてんとさまに恥ずかしくない生き方をしなさい」といった言い回しがありましたね。「おてんとさま」は太陽のことを言いますが、「御天道様」と書いて、「天地をつかさどり、すべてを見通す超自然の存在」といった意味もあります。

 現代でも、この「超自然的なパワー」は、色々な人々にさまざまな呼び方をされています。
 ・サムシング・グレート:村上和雄(遺伝子生物学者・筑波大学名誉教授)
 ・宇宙意志:桜井国朋(宇宙物理学者)
 ・光:飯田史彦(経営コンサルタント・「光の学校」を主催)
 ・「すべて」である知性あるいは根源的な知性:ディーパック・チョプラ(医学博士・「チョプラ・センター」主催)
 ………。
 といった具合です。
 『プルーフ・オブ・ヘブン』のエベン・アレグザンダーは、この超自然的な何ものかを「オーム」と呼んでいました。

 要するに、この世を含んだ「すべて」を支配している何ものかに対して、人は色んな呼び名を与えているようです。
 この何ものかを、現在の科学では証明できないという立場で認めない人もいるでしょう。しかし、本来、「科学によって解明されている範疇を超えることがらについては、科学がそうでないと証明したことと、科学がいまだに発見していないこととを、はっきり区別して考えなくてはいけない」(ダライ・ラマ14世)のです。

 だから、臨死体験からの経験を語られた内容が、いくら科学の常識を超えているとしても、それを頭から否定することは、決して科学的な態度ではないのです。
 
 それよりも興味深いのは、物質を超えた「存在」を意識すると、いずれの著者も共通して、謙虚になり、すべての人と物がつながっているという意識から、「許し」ないしは「愛」、「思いやり」という心に目覚めているところです。

 より大きな「存在」を意識すれば、俗世間の地位や名誉や金や権力といったものは、すべて取るに足らないものに思えてくるのかも知れませんね。

2014年2月17日月曜日

脳外科医の臨死体験を読んで考えた

 昨日の京都新聞の書評で、アメリカのベテラン脳外科医エベン・アレグザンダーの『プルーフ・オブ・ヘブン 脳神経外科医が見た死後の世界』[早川書房]がアメリカで200万部を超えるベストセラーになっているという記事を読み、kindle版で購入してさっそく読んでみました。



 著者は、化学を専攻した後、1980年にデューク大学メディカル・スクールで医学の学位を取得し、デューク大学、マサチューセッツ総合病院、ハーバード大学で11年間を医学生、研修医として過ごした医師です。また、神経内分泌学の研究に専念した研究者でもあります。その後、ハーバード・メディカル・スクールで脳神経外科の准教授として15年間勤務し、数多くの手術も手がけていました。
 要するに彼は、「科学に自分を捧げてきた人間」なのです。

 その彼が、2008年11月10日、54歳のときに、大腸菌による細菌性髄膜炎に罹患し、7日間昏睡状態に陥ります。ところが、彼はその後、奇跡的に意識を戻しました。そして、自分自身が昏睡状態にあるときに体験した「不思議な世界」(彼はこれを、物質や人間の意識を超えた高次の存在と「解釈」しています)の記憶について、人々(とりわけ彼と同じ医師や研究者)に向けて、語る必要があるという義務感にかられて、『プルーフ・オブ・ヘブン』を書いたそうです。

 これが、日本のタレントあたりが語られたものだったら、話半分に聞くところですが、自身「科学に自分を捧げてきた人間」だと言っている人物によって語られたとなると、信用度が上がりそうです。読んでみると、実際、彼は慎重に言葉を選び、真摯に自分自身の稀有な体験を語ろうとしている姿勢が伝わってきます。

 しかし、昏睡状態で経験した世界は記憶としては鮮明ではあるけれども、「こちらの世界」の言葉では、十分に表現しきれない、と著者自身が言っています。だから、文字になって、さらにそこに解釈が入ってくると、それはもはや、彼が体験した「不思議な世界」そのものではなく、あくまで「こちらの世界」の言葉で表した「あちらの世界」ということになってしまうところがもどかしいところです。

 いろんな読み方があるかもしれませんが、ぼくは、これを読みながら、グリア細胞のことを考えていました。(著者は、グリア細胞の関与についてはひと言も触れていません)
 確かに、細菌性髄膜炎で大脳の表層の細胞(とりわけニューロン)の「電気的活動」は停止し、正常な脳波は記録されなくなってしまったかも知れません。しかし、著者の場合は、心停止からの蘇生による昏睡ではなく、心臓はずっと動き続けた上での昏睡でした。したがって、脳への血流は保たれたままでいたはずです。すると、大多数のグリア細胞は生きたまま活動していた可能性が考えられないでしょうか?
 以前にも触れたように、グリア細胞というのは、カルシウムイオンの流入という方法で情報の伝達らしきものを行っています。現在、臨床医学では、このカルシウムイオンの動態を知るモニターは存在していません。だから、現状では、医師たちは脳波に頼って、植物状態であるとか脳死であるとかといった判断をすることしかできないのです。

 大胆な仮定として、著者のエベン・アレグザンダーが体験した「臨死体験」の世界における認識が、グリア細胞の活動によるものだとしてみましょう。すると、彼が『プルーフ・オブ・ヘブン』の中で描いた世界は、「死後の世界」や「高次の世界」などではなく、単にグリア細胞が描く世界だということになりはしないでしょうか?

 著者によれば、著者の記憶は「あの場所を後にしたときのままに、どこも色褪せずにそこにあったのだ」そうです。これがグリアの記憶だとすると、グリアの記憶はけっこう鮮明な記憶のようですね。
 また、「こちらの世界よりも高い次元にある世界では、時間が同じようには流れていないのだ。そこでは必ずしもものごとが順を追って展開しない。一瞬が一生分の長さに感じられたりした。だがわれわれの知る時間感覚と比べれば異質ではあるものの、支離滅裂なわけではない」とも述べています。時間の経過や論理的な整合性、言語で表される意味などといったことについては、神経細胞(ニューロン)の活動が要求されるのかもしれません。
 著者は、「あちらの世界」で美しい音楽を聞き、すべてのことを許される「愛」のような存在を感じたとも表現していました。つまり、ニューロンの活動が停止していても、音楽を感じたり、愛に満ちた感覚などは残っていたのです。美や善、あるいは音楽などという内容は、ひょっとしたらグリア細胞の活動が支えているものかもしれないな、と『プルーフ・オブ・ヘブン』を読みながら考えました。

 


2014年2月15日土曜日

声門に挿管チューブを押し込んではいけない

 1985年に、飢餓に苦しむアフリカに救いの手を差しのべようと、全米のトップ・アーティストが一堂に集結して、夜を徹した録音の結果作られたのが〈We Are The World〉でした。
 これは、音楽チャリティ史上最大のヒット曲となっています。
〈We Are The World〉の作詞・作曲は
マイケル・ジャクソンとライオネル・リッチーでした。

 この曲では、全員がコーラスをとる部分と、一人一人のアーティストがソロをとる部分が交互にでてきます。ほんの2,3フレーズだけのソロなのに、誰の声だか聞き分けられます。歌を歌うときの「声」というのは、まさに歌手そのものなのだなと再認識できます。

 この声の元が、声帯という器官の振動です。私たち麻酔科医は、ふだんこの声帯のすき間にある、声門を通して、気管チューブを留置しています。何のトラブルもなく挿管できたときでも、術後に嗄声が残ったりすることもあります。かつては、指導医から「気管チューブは押し込むんじゃない。そっと置きに行くように挿管するんや」と言われたものでした。
 今では、ラリンジアルマスクやi-gelなど声門上で気道確保できるデバイスができているので、喉頭への負担は軽減することが可能になっています。
 以前、声楽家の患者さんが全身麻酔で手術を受けに来られたことがありました。そのとき、挿管ではなくラリンジアルマスクを用いるようにします、と術前に説明をすると、ホッとした顔をされたのを思い出します。



 一色信彦先生の『声の不思議』[中山書店]によると、声を出せるようになったのは、進化のかなり後の段階で、声を出す動物の中でも、人間の「声」ほどデリケートで複雑なものはありません。
 魚が陸に上がり始めたころ、空気中の酸素を吸収するための肺が発生してきましたが、それまでのエラ呼吸と違って、水を飲みこむと肺が水浸しになる危険性が現れました。水と空気の通り道を分ける弁が必要となったのが、喉頭の始まりだとされているそうです。

 「人が直立歩行し、手を自由に動かして物を作り、声をだし、それをさらにいろいろの音(語音)に変えてコミュニケーションに利用しました。手と舌、これが人類文明の二本柱」だと、一色先生は述べています。

2014年2月14日金曜日

ホワイトバレンタイン

 今日は全国的に雪となりました。京都でも朝から雪が降り続き、一時は吹雪のような天候となっていた所もあったようです。
雪の朝。モノトーンの世界です。



病院の仮設廊下に積もった雪には、
出勤する職員の足跡が点々とついていました。


 雪のクリスマスは、ホワイトクリスマスと呼ばれますが、今日はさながらホワイトバレンタインでしたね。













麻酔科にいただいたチョコレート。
ありがとうございました。


 ジャズのスタンダードナンバーに、〈マイ・ファニー・バレンタイン〉という曲があります。ジャズメンのお気に入りで、数多くのアーチストがカバーしています。
 マイルス・デイビス(tp)もハービー・ハンコック(p)、ロン・カーター(b)、トニー・ウィリアムズ(ds)、ジョージ・コールマン(ts)のグループで〈マイ・ファニー・バレンタイン〉をライブで演奏しています。
 この頃のマイルスは、すべての音を自分の支配下に置こうとしていて、まさに暴君のように振る舞っていました。レコードを聞いていても、YouTubeで見ていても、グループのメンバーがピリピリ(というよりもビクビクかな?)している様子が伝わってきます。
1964年2月12日、ニューヨークのリンカーン・センター
フィルハーモニック・ホールでのライブ。

 〈マイ・ファニー・バレンタイン〉は、作詞がロレンツ・ハート、作曲はリチャード・ロジャースで、最初は1937年のミュージカル《Babes in Arms》で紹介されたそうです。
 歌は、女性から男性に向かって歌われる内容になっています。(バレンタインというのは男性の名前ですね)

 私の恋人、おかしなバレンタイン、
 愛しく滑稽なバレンタイン、
 貴方は心から寛がせてくれる。
 貴方のルックスには笑ってしまうし、
 写真うつりもよくないけれど、
 貴方こそ私にとってお気に入りの芸術品。
 体格もイマイチ、気がきくわけでもないけれど、
 どうか、そのままで変わらずにいてほしい。
 ずっと私のそばにいて。
 貴方がいてくれるだけで、
 私にとっては毎日がバレンタインズ・デーなのだから。

 (訳詞は大橋美加さんのものを参考にしました)

大橋美加『唇にジャズ・ソング』
[ヤマハ]

 大橋美加さんは、これは「まさにホメ殺しの正反対をいく歌詞だ。女から男へであるなら、ユーモラスで微笑ましい表現で片付けられるけれど、男性からこんなふうに言われたら、私ならビンタのひとつもくれてやって、ハイ、さようなら。たとえ、心で思っていても口に出してほしくない」と言っています。

 「女性には、男性の愉しみのひとつ”目の欲望”がない。ひたすら、見られる側にまわるしかない。目で見て欲望を遂げることができないのが女性。したがって、”見る側”の男性からどれほど賛辞をもらったか否かで、女性の人生は大きく変わってしまう」のだそうです。

2014年2月12日水曜日

外科ロボット発進!

 今朝は雲が厚く、いったん昇った太陽が再び雲間に隠れてしまうような朝でした。夕方からは小雨が降りましたが、みぞれではなく、少し暖かさを感じさせるくらいの雨でした。

 さて、京都市立病院では、泌尿器科の前立腺全摘術にロボット手術が導入されて、半年が経とうとしていますが、今日はいよいよ外科のロボット手術が始まりました。
右方が患者さんの頭側。頭高位のポジションです。

 胃切除術でしたが、前立腺と違って、こちらは頭高位のポジショニング。患者さんの顔の部分にまでドレープがかかるので、途中で外科医から胃管の深さ調節の依頼があったときに、なかなか鼻元までアプローチできず、これはこれで、外科独特の課題がありそうです。
ダ・ヴィンチの操作は、この画面の右手の方で行っています。


今日の笑顔

 チーム外科ロボットのメンバーの一人であるYoさん。
看護学生時代は茶道部でした。
日本には、茶運び人形というからくり人形を作った
技術力がありますから、これから楽しみですね。