「何かを学ぶ」とき、受け身になっていてはダメです。学ぶ側に、学ぼうとする主体性がそなわっていることが、第一の条件(自分が学びたいことしか学ばない)なのです。
『論語』にこんな言葉が出てきます。
「憤(ふん)せずんば啓(けい)せず。悱(ひ)せずんば発(はっ)せず。一隅を挙げて三隅を以て反(かえ)らざれば、則ち復(また)せざるなり」(述而篇)
意味は、「相手の気持ちが盛り上がってこなかったら、手を貸してやらない。口まで出かかっているのでなかったら、助け船は出してやらない。一つの隅を示しただけで、他の三つの隅にも鋭く類推を働かせるようでなかったら、それ以上の指導は差し控える」(守屋洋訳)ということです。
内田樹氏はまた、「学び」とは「離陸すること」だと言います。「学び」というのは、「自分には理解できない『高み』にいる人に呼びよせられて、その人がしている『ゲーム』に巻き込まれる(involve)という形で進行する」ものなのです。
だから、自分の価値判断の「ものさし」にこだわって、それを後生大事にかかえ込んでいる者は、離陸ができず、自分の限界を超えることができないのです。
「学び」とは、鳥のように空から地平を見下ろすような、ある意味、鳥瞰的視座に立つことだと言えます。だから、検定試験を受けたり、資格をとったりするというのは、「学び」ではなく、同じ地平(平面)の中で、自分の領地を広げる行為に過ぎないのです。
「学びの主体者(学生・研修医)」が学ぼうという気になっているとき、「教える主体者(教師・臨床研修指導医)」は、どのような態度で臨めばよいのでしょうか?
内田氏は、「教師の仕事は『学び』を起動させること」だと言っています。研修医の指導にあたっていると、ついつい自分の知っている知識を教えようとしている自分に気づくことがあります。でも、そうした指導は、同じ地平での領地拡大に過ぎないのです。大事なのは、相手が「離陸する」手助けをすることなのですね。
ウィリアム・アーサー・ワードというアメリカの教育学者の言葉に、次のようなものがあるそうです。(カワン・スタント『感動教育』[講談社]より)
「凡庸な教師はただしゃべる。
良い教師は説明する。
優れた教師は自ら示す。
そして偉大な教師は心に火をつける」
医療の現場では、研修医を怒鳴りつけ、ののしる臨床研修指導者をしばしば見かけます。それも、相手の人格を否定するような言葉で、です。こんな「教師・指導医」は「凡庸」以下、もはや「教師・指導医」とは呼べないのかも知れませんね。
今日は寒い一日でした。 夕方、東の空に、しばらくの間、虹のかけらが見えました。 |