2013年10月17日木曜日

ヒンクリーはなぜエーテル・デイを描いたのか?

 10月16日は、アメリカではエーテル・デイと呼ばれています。
 
 それは、ボストンのマサチューセッツ総合病院で、エーテル麻酔による公開手術が行われた日が、1846年の10月16日だったからです。
 この日、歯科医のウィリアム・モートンは、エーテルという名前を伏せて、自らが「開発」したと称する麻酔薬を用いて、頸部の腫瘤摘出術の手術の麻酔を行いました。画家のロバート・ヒンクリーが、この日の出来事を絵に描いたのは、モートンによる最初のエーテル麻酔から約40年後のことでした。絵の片隅に記入された年号は「1882〜1893年」となっています。とすると、ヒンクリーは、この絵を仕上げるまでに約10年の歳月をかけていたことになります。
Robert Hinckly "The First Operation Under Ether"(約2.4×3.0 m)
The Boston Medical Library in the Francis A. Countway Library of Medicine

 10年も費やして、ひとつの絵を描き上げた情熱の源は何だったのでしょうか?

 その理由のひとつには、ヒンクリーがボストンの出身であったことがあげられるでしょう。つまり、この医学史上の有名な出来事は、彼の地元で起こったことだったのです。
 そして、もうひとつの理由は、彼の親戚(叔父)に医者が二人もいた、ということではないでしょうか?想像するに、彼は子どもの頃から叔父さんのところに遊びに行った折りなどに、叔父たちが若い頃に見聞した、エーテル麻酔のすごさについて聞かされていたのではないでしょうか?

 ヒンクリーは、十代にフランスに渡って、絵の修行をしています。この時の彼の師匠は、カロルス・デュランという、肖像画を得意とする画家でした。ヒンクリーは彼の下で、アレキサンダー大王がペルセポリスの都を焼き払ったときのエピソードを描いた壁画サイズの絵を描き上げています。これが、1882年のことです。
 モートンのエーテル麻酔を題材に絵を描き始めたのは、ちょうどこの年から、ということになります。おそらく、ヒンクリーの頭の中には、フランスにいる間から、叔父たちに聞かされていた、地元の大事件を絵にしようという目論見があったのでしょうね。
 実際、1883年には、ヒンクリーはボストンに戻って、いろいろ資料を集めたり、生存者に話を聞いて回ったりしていたようです。

 彼の意図は、史実を正確に再現することではありませんでした。それは、絵の構図を見ても明らかです。エーテルで麻酔された患者を中心にすえ、この部分は、白い色合いで、ひときわ強調されています。患者を一番低い位置に置いて、その両側にせり上がるようにふたつの三角形の形に見学者が配置されています。一番左端で、椅子に載ってのぞきこんでいるのは、新聞記者だとされていますが、この人物などは、構図のために配置されているようです。
 ここに描かれた人々が誰であるのか、というのは今でも謎の部分があると言われています。というのは、実際にその場に居合わせた人物もいれば、明らかにいなかった人物も描かれている一方で、いたと考えられている人物が描かれていないからです。中央舞台には、当時はまだ学生だった医師まで描かれているとも言われています。
 どうやら、ヒンクリーは、この公開手術のときの主要な関係者以外は、適当な肖像画を元に描いていたのかもしれませんね。
今朝は、日の出前の一瞬、
東の空が燃え上がるように見えました