これは、今日まで生態が謎につつまれていたダイオウイカの生きて動く姿を、世界で初めて撮影に成功したときの記録です。この番組は、ドキュメンタリーとしては異例の、視聴率16.8%という数字を獲得したそうです。
イカというのは、日本人にとっては、イカ刺し、イカ焼き、イカそうめん等々、日ごろの食材として馴染みのある存在です。しかし、古来、西洋人にとっては、海に棲む不気味な生き物のひとつと考えられていたようです。
そのイカの中でも、深海に棲むと言われているダイオウイカは、漁師によって、足の一部が見つけられたり、死骸が見つかったり、マッコウクジラと闘う、船を襲う等々、虚実入り混じった話が流布していました。
しかし、生きた姿を見た者は誰もいませんでした。
NHKスペシャルでは、2012年の夏に、小笠原の深海において、生きたダイオウイカの姿を23分間にわたってカメラに収めることに、世界で初めて成功したときの調査活動を中心に番組が作られていました。
この放送だけを見ていると、あたかも、この2012年の調査だけで幸運にもダイオウイカを撮影できたように見えます。しかし、実際にはこの23分間の撮影を成功させるためには、10年もの歳月が流れていたのでした。
NHKスペシャル深海プロジェクト取材班 +坂元志歩『ドキュメント 深海の 超巨大イカを追え!』(光文社新書) |
「潜水時間は400時間以上。深海カメラを沈めた回数は実に520回。かつて誰も信じてくれなかったダイオウイカを撮影するというアイデアは、人から人へと受け継がれ、少しずつ実現に近づいていった」のです。「この間、小笠原の漁師が生活から導き出した経験、取材によって得た膨大なデータから見えてきた法則、そして11カ国50名もの人々が集まった潜水艇の撮影チームの志。情熱という種が人々の間で転がりながら、一つの実になっていった」のだと、『ドキュメント 深海の超巨大イカを追え!』(光文社新書)の中で取材班は述べています。
生きた映像を確実に捕らえられるという保証もなく、撮影のための予算が無尽蔵にあるわけでもなく、そもそもどこでダイオウイカに逢えるのかというデータもない状況で、世界で初めてのダイオウイカの撮影という偉業を成しえた理由は、まさに奇跡だった、と取材班の面々は一様に述べていたそうです。
テレビ番組では、1時間に話をまとめなければならないので、とうてい、この10年に及ぶ苦労は描けません。でも、「23分間の奇跡」を起こすためには、この10年が必要だったのです。だから、NHKスペシャルのドキュメントを見るときは、『ドキュメント 深海の超巨大イカを追え!』の本も同時に読まねばならないでしょう。
ところで、イカは、医学の進歩にも大きな貢献をしていました。
脊椎動物の神経軸索は、太いものでも20ミクロン程度ですが、イカの場合はその直径は1mmほどもあるので、肉眼でも観察できるのです。この太い神経軸索の信号の伝わり方は高等動物と変わらないので、神経興奮のメカニズムの研究にイカの神経が使われました。イカの神経を用いて、イオンチャンネル理論を確立したイギリスのホジキンとハクスリーの二人は、1963年にノーベル生理学医学賞を受賞しています。
脊椎動物では、神経の興奮は秒速100m(時速360km)という超特急並みのスピードで伝わりますが、これは、神経軸索の周囲をオリゴデンドログリアという細胞が取り巻いていて、「跳躍伝導」するためです。イカには、このような「跳躍伝導」するためのグリア細胞がありません。つまり無髄の神経なのです。この無髄神経では、通常伝導速度が遅くなってしまうので、イカはすばやい動きができるような伝導速度を獲得するために、進化の過程で神経軸索そのものを太くしたのです。この太い神経軸索のおかげで、電極の挿入や膜電位の測定が容易になりました。神経興奮を研究する科学者たちは、きっと毎日イカをさばいていに違いありません。
それにしても、ダイオウイカの神経の太さは、一体どれくらいあるのかしら?