kindle版『光圀伝』 |
子どもの頃にテレビで見た水戸黄門様は、身分を隠して助さん格さんと全国を旅しながら、農民をいじめる悪代官たちと対決し、最後に印籠をかざして、悪をこらしめていました。この黄門様のイメージとは、まったく異なった水戸光圀の姿を、冲方丁の『光圀伝』で知りました。
光國(若い頃はこちらの字を使っていました)は、兄を差し置いて、父親によって自らが世子とされたことに不義を感じていました。そして、水戸の藩主になったときに、兄の子を養子に迎えて、次期藩主には兄の実子をすえて、大義を果たします。
この『光圀伝』は、彼が生涯をかけて大義を果たす、というストーリーを中心にすえて、魅力的な人物が次々と現れて、物語を膨らませています。
光圀が藩主となったときの心構えがすてきでした。
「大義とは、人の苦しみを知り、喜びを見出すことである」
「余が藩主となって最初になさねばならなかったことは、宣言であった。…藩主として、世はどうあるべきであり、藩の展望をどう考えているかを告げ、もって余の思想と気質とを報せるのである。思うに、烈しく世を変えんと願うものほど、この宣言に重きを置くものだ」
「藩主とは、託す者である。事業がなされたとき、褒め称えられるべきは託された側であって、余のような託した者ではないのである。託した者は、託された者の働きを称賛せねばならず、我が着想のありしを黙して、ただ事業の成就を喜びとすべきなのである」
藩を病院、藩主を院長と読み替えると、そのままわたしたちの職場にも当てはまりそうな文句ではないでしょうか?
病院機能評価受審の キックオフミーティングを報せる ポスター |
来年度、京都市立病院は病院機能評価を受けようという目標をかかげています。まさに、院長はひとりひとりの職員に事業を託そうとしているわけです。
これまでの機能評価の取り組みでしばしば見受けられたのは、審査が終了した後の、病院職員の疲れあるいは虚脱感でした。
患者さんや職員にとって善き病院にしようと努力しているのに、審査が終わると、みなどっと疲れ果ててしまうのです。これでは、プロセスのどこかが不十分だったと言わざるをえないかもしれません。
光圀も次のように語っていました。
「事業を推進しようとして、いたずらに家臣を疲弊させる主君は、どれほど人徳があっても、暴君と変わるところがなかった」