2013年12月31日火曜日

仁とは〈あいだのいのち〉だった!

 小倉紀蔵氏の『新しい論語』の続きです。

 小倉氏の『論語』の解釈がすごいのは、とりわけ仁について、です。


 『論語』の中には、仁という言葉がたくさんでてくるのですが、孔子とその弟子は、仁とは何であるか、という明確な定義をしていません。弟子たちは仁について知りたがっているのに、孔子は「仁とはこれこれのものだ」とはっきりとは言いませんでした。
 それは、「そもそも仁とは一義的な定義にはなじまない、ということを孔子はいいたいから」だ、と小倉氏は考察しています。





 仁というのは、ある個人の中にあるものではなく、人と人のあいだに、偶然たちあがってくるもの(これを小倉氏は〈あいだのいのち〉と呼びました)で、決して「愛」や「道徳」という言葉には置きかえられないものなのだそうです。さらに小倉氏によれば、「個として己を確立することが前提となって、その個と外在する存在や価値との〈あいだ〉に、仁が成立するということである。逆にいえば、個がなければ仁は成り立たないのである。すべての人間が共同体のなかに完全に埋没している状態においては、仁は立ち現れない」のです。道徳的にかくあるべきという一面的な考えに支配されている場合もまた然りでしょう。

 子の曰わく、志士仁人は、生を求めて以て仁を害すること無し。身を殺して以て仁を成すこと有り。(先生がいわれた、「志しのある人や仁の人は、命惜しさに仁徳を害するようなことはしない。時には命をすてても仁徳を成しとげる。」)[衛霊公第十五]

 これは金谷治氏の訳ですが、小倉氏は、これを次のように解釈しました。
 先生がいわれた、「志のある士や仁の人は、肉体的な〈第一の生命〉を保全しようとして〈あいだのいのち〉を損なうというようなことはしない。自分の肉体を滅ぼしてまでも、〈あいだのいのち〉つまり〈第三の生命〉を立ち現すということがあるのだ」


 つまり、仁というのは、人の命そのもの(これを小倉氏は〈第一の生命〉と呼んでいます)よりも大事なものなのです。共同体や社会といった人為的な「つくりもの」の〈いのち〉(こちらは小倉氏が新しく定義した〈第三の生命〉です)の方に孔子は重きを置いていました。(ちなみに、〈第二の生命〉は、自然を超越した精神的・宗教的な生命をさします)





 孔子は、人と人とのあいだには隔たりがあることに気づいていたようです。だから、子貢が「一生の座右の銘とできる言葉は何でしょうか?」とたずねたときに、「其れ恕(じょ)か。己の欲せざる所、人に施すことなかれ。(まあ恕(思いやり)だね。自分の望まないことは人にしむけないことだ。)」[衛霊公第十五]と孔子は答えたのです。

 ここで思い出したのが、平田オリザさんのコミュニケーションに関する考え方でした。すなわち、新しいコミュニケーションの考え方は、「関係や場の問題」としてとらえるべきではないかと平田さんは言います。つまり、たとえば会社の中などで、ある人がうまくしゃべれないというような場面があった場合、その原因を個人にのみ帰するのではなく、その会社が話しかけやすい環境になっているのかどうかということに注意を向ける必要があるというのです。(平田オリザ『わかりあえないことから コミュニケーション能力とは何か』[講談社]



 考えてみれば、「関係や場」というのは、人と人のあいだにあるものです。孔子に言わせれば、ここには何もないのです。しかし、ある人(A)が別の人(B)のことを思いやり、その人(B)がしゃべりやすい雰囲気を作ってやれば、そこに「話しかけやすい環境」というものがたちあがってくるのではないでしょうか?





 平田オリザさんは「これからの時代に必要なもう一つのリーダーシップは、弱者のコンテクストを理解する能力だろう」と考えています。「社会的弱者は、何らかの理由で、理路整然と気持ちを伝えることができないケースが多い」のです。したがって、相手(B)が当たり前のコミュニケーションを取れない場合には、こちら(A)が歩み寄っていかなければならない場合が出てくるわけです。
 そうした上で、双方(AとB)が分かり合えたならば、おそらくそこに「仁」という〈あいだのいのち〉が立ち上がってくるのではないでしょうか?

 Aがいくら教養があって徳のある人であったとしても、Bが心を開けるような環境を作ることに配慮してやらなければ、AとBとの間には、〈あいだのいのち〉(すなわち仁)は立ち上がってこないのです。さらに、周囲の状況によっては、同じ言葉をかけても、仁が立ち上がることもそうでないこともありうるわけです。あるいは双方の体調、空腹感、前夜の夫婦げんか、出勤時に水たまりに足を踏み入れてしまった、などというささいな状況までが影響してくる可能性があります。
 相手により、また状況により、その場その場で対応を変えていかなければならないが故に、仁は偶発的で偶然性に支配されていると言えるのかもしれませんね。





 このように、仁というのは個人の内にあるものではなく、人と人とのあいだに立ち上がってくる〈あいだのいのち〉なのだ、と解釈し直したところが小倉紀蔵氏の凄いところなのです。