2013年12月8日日曜日

生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ

 ネルソン・マンデラが27年間にわたって投獄されていたときに、心の支えにしたのが、「インビクタス」と題する詩でした。これは、19世紀のイギリスの詩人、ウィリアム・アーネスト・ヘンリーが、20歳代の半ばに書いたものです。

 彼は若くして結核を患い、片足を切断されます。こうした試練の中で、「病魔になんか負けないぞ」という強い決意で書いたのが「インビクタス」でした。

Invictus

Out of the night that covers me,
Black as the pit from pole to pole,
I thank whatever gods may be
For my unconquerable soul.
In the fell clutch of circumstance
I have not winced or cried aloud.
Under the bludgeoning of chance
My head is bloody, but unbowed.
Beyond this place of wrath and tears
Looms but the Horror of the shade,
And yet the menace of the years
Finds and shall find me unafraid.
It matters not how strait the gate,
How charged with punishments the scroll,
I am the master of my fate:
I am the captain of my soul.

   - William Ernest Henley

 大意は、「自分の体がどんなに悲惨な状況にあろうとも、痛みに顔をしかめたり、声を上げて泣いたりはしない。運命に見放されて打ちのめされようとも、ぼくは絶対に頭を下げない。ぼくがぼくの運命の主人であり、ぼくが自分の魂の統率者なのだ。」

 マンデラ氏は、ロベン島の独房に入れられていましたが、決して希望を失わず生き抜きました。どんなに苛酷な状況にあっても、自分の魂は自分だけが自由にできるのだと、この詩に励まされたに違いありません。

 それにしても、27年間世間から隔離される生活をしていて、よくくじけなかったものだと思います。ぼくなら、絶望して、早々と抜け殻のような人間になっていたことでしょう。

フランクル著・池田香代子訳
『夜と霧 新版』(みすず書房)

 ヴィクトール・エミール・フランクルは、第二次世界大戦中、ナチスの強制収容所に入れられていました。そして、生きて戦後を迎えるとすぐに『強制収容所におけるある心理学者の体験』を出版しました。これは、後に通称『夜と霧』という名で世界各国で翻訳されて刊行されました。

 フランクルは、収容所のような極限状態に置かれたとき、人間は、何を見ても、何に触れても、何も感じない「無感動」「無感覚」「無関心」状態に陥ることを観察しました。中には、絶望して自ら命を立つ人もいました。

 「ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることになにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。」(池田香代子訳)と、フランクルは言っています。
 つまり、フランクルの観点では、「人がみずからの主観で人生に意味があるかないかを決めうるとして、人生の意味を問う構えそのものが、そもそも傲慢なものだということになる」(諸富祥彦『100分de名著 フランクル 夜と霧』[NHK出版])のです。

 「人間は人生から問いかけられている」というのは、「誰か」があなたを待っていて、「何か」があなたを待っているということだと、諸富氏は解釈しています。
 フランクルは、収容所で、自殺を考えている人を説得するときに、やり残している仕事、あなたがいなければ実現されることのない何かがあるのではないか、あるいはあなたを必要としている誰かがいるのではないか、と質問して、その人を待っている「誰か」や「何か」を思い出させて、自殺を思いとどまらせた経験を語っています。

 諸富氏は、「人間という存在の本質は、自分ではない誰か、自分ではない何かとのつながりによって生きる力を得ているところにある」と言っています。

 フランクルは、人間の本質を「人間はホモ・パティエンスである」すなわち「人間は苦悩する存在である」と定義しました。そして、人間は、理由のない苦しみには耐えられないけれども、「何かのための苦悩」「誰かのための苦悩」だと思うことができれば、それほど大きな苦しみにはならないのだと言います。
 『夜と霧』の中では、ドストエフスキーの言葉を引用して、フランクルは苦悩に関してこう言っています。
 「わたしが恐れるのはただひとつ、わたしがわたしの苦悩に値しない人間になることだ」

 かつて、マザー・テレサは、「愛の反対は憎しみではなく、愛の反対は、誰からも必要とされないことだ」と言いました。誰からも必要とされていないと思い込むと、人間は絶望して生きる力を失ってしまうのかもしれません。だから、極限の状況でも生き抜くためには、「自分は誰かに(何かに)必要とされているのだ」と信じることが大事なのかもしれませんね。たとえ、苦しみだけの生であっても、それが「誰か(何か)のため」だと思えたら、生きることに意味を見いだせるのかもしれません。
厚い雲の向こうには太陽があるのだ