2013年12月23日月曜日

「神を信じることは素晴らしい」という命題について

 もうすぐクリスマス。キリスト教では、クリスマスはイエスの誕生日とされて、毎年盛大なお祝いがされています。

 キリストは、神の御子として乙女マリアから生まれました。最期は十字架に架けられましたが、三日後に復活して、永遠の命を授かりました。「父と子と精霊」の三位一体説にしたがえば、イエスも神と同等の存在なのです。

 クリスチャン以外の人々は、神を信じる人々に対して、神が実在するかどうかなんて分からないじゃないか、と思うかもしれません。そして、それらを信じる人々に対して、「実在するかどうか定かでない神を信じて生きるなんて、愚かなことだ」と言うかもしれませんね。

 ここで気をつけなければならないのは、ふたつの命題を区別することです。
 「神が実在する」という命題は、「科学的命題」と呼ばれています。神が実体をもった存在であるかどうかは、事実にてらして調べるべき問題です。


 一方、キリスト教の信者さんたちが、「神を信じることは素晴らしい」と思うことは、「価値的命題」なのです。つまり、神が実在するしないにかかわらず、神を信じるというのは一つの立場であり、それはそれで一つの価値観なのです。
 この立場に対して、そうした価値観をとらない人が、先のように「愚かなことだ」と批判することはできるし、そうした批判をするのは自由です。でも、これは価値観の対立だから、どちらが正しいか、という問題ではないのです。









安斎育郎『科学と非科学の間 
超常現象の流行と教育の役割
(かもがわ出版)


 人々が、それぞれの価値観にもとづいて神を「信じる」も「信じない」も、それは各人の完全な自由であって、科学がとやかくいう筋の問題ではないのです。
 以上は、立命館大学教授の安斎育郎先生のコメントです。(安斎育郎『科学と非科学との間』[かもがわ出版]より

 医療の世界には、民間療法というのがあります。「この民間療法に治療効果があるかどうか」というのは「科学的命題」であって、検証しようと思えばできることです。
 しかし、その民間療法は効果があると信じて、患者さんが自分の治療に取り入れている場合、医療従事者は、「効き目がないからやめたらどうですか?」と安易に言えるでしょうか?
 プラセボ効果というのがあるかもしれません。また、頭ごなしに否定した場合、患者さんが治療に参加しようとする意欲にも影響を及ぼすかもしれません。
 だから、「その民間療法が自分には効くのだ」と信じて取り入れている患者さんに対しては、それをエビデンスがないからと、否定するわけにはいかないのです。なぜなら、「その民間療法が自分には効くと信じている」というのは、その人にとって「価値的命題」だからなのです。