「三宅島では、年寄りは、食べられなくなったら水を与えるだけ。そうすると苦しまないで静かに息を引き取る。水だけで一ヶ月は保つ」
石飛幸三『「平穏死」のすすめ 口から食べられなくなったらどうしますか』(講談社)の中で紹介されているエピソードです。石飛幸三先生は、40年間外科医を続けた後、特別養護老人ホーム、芦花ホームの常勤医として勤務したとき、点滴や胃瘻で「生かされている」高齢者の実態を目の当たりにして、これでいいのだろうか、と自問されたそうです。
認知症があって寝たきりになっている高齢者では、一日に必要な水分量やカロリーは、健康な成人に比べるとずっと少なくてすむのだそうです。そして、口から食べものを食べられなくなった時点では、水だけ、場合によっては水を含ませたガーゼで唇を湿らせる程度で数週間ももちこたえます。そして、最期は、安らかに息を引き取っていかれます。それが、老衰、自然死のあるべき姿であるとして、こういう死に方を「平穏死」と呼びました。
石飛先生が着任するまでの芦花ホームでは、老人の容態が悪化すると救急車を要請して病院に搬送していたそうです。すると、そこでは点滴治療されたり、胃瘻を作られて、状態が落ちついたら特養に戻される、ということがくり返されていたそうです。
医療機関にしてみれば、食べられなくなった高齢者や誤嚥性肺炎を起こした「患者」をそのままにしておくことはできません。やはり、何らかの医療介入を行ってしまいます。しかし、点滴治療や胃瘻造設による栄養補給が、必ずしもQOLの改善に結びついていない、と石飛先生は分析しています。胃瘻を作ることによって、かえって誤嚥性肺炎の発生率を上げているというデータも示されていました。
「老衰は、治療対象としては、人生途上の病気とは区別して考えられるべきなのに、現在医師は、老衰の場合も同じように治療をしている傾向があります。そのことの無意味さ、不合理さを、多くの医師は内心感じている」と、石飛先生は言っています。
では、人生途上の病気による死ならば、病院で解決できるのか、というとこの場合にも複雑な事情があるようです。
里見清一『見送ル ある臨床医の告白』(新潮社)は小説ですが、現役の呼吸器内科医の著者の体験を元に書かれたもので、読んでいると、病院でのカンファレンスを聞いているような場面も出てきます。
出てくる症例は、喘息と肺癌が主な疾患ですが、いずれも死がからむドラマになっています。ステロイド剤を投与しようかどうか迷って、投与せずに帰した患者が、その夜、喘息の重積発作をおこして死亡してしまう。有効性がまったく認められない薬剤を患者に使わざるを得ないときに説明をしなければならない。内科的に癌を抑えこんで、左肺全摘という外科手術にもち込んで癌を治療した患者が、予期せぬ肺の過膨張によって肺動脈の血流が途絶えて死亡してしまう。有効な治療がない患者を前にして、条件があわないために治験薬が使えなくて、家族からは無駄とわかっている治療をしてくれと希望を出される…。
臨床の現場では、老衰とはまた異なる、死をめぐる複雑さが渦巻いているようです。死が確実である患者を前にして、医師ができることは何でしょうか?死にゆく人を安らかに死なせ、残された者を納得させること、なのでしょうか?
この小説で描かれた世界は、生きて手術室を出ることを当然としている麻酔科医の仕事とは、かけ離れた世界のように思えてきます。
「死」とは何なのか?
確実に言えるのは、「誰でも人はいつかは死ぬ」ということだけです。しかし、「死」とは何なのか、という問いに対する答えは、実は明確ではありません。先ごろ改定された「臓器移植法」によって、脳死患者からの臓器提供を受ける機会が増えました。
「脳死・臓器移植自体が、臓器を提供する脳死患者と、臓器をもらう患者の二人に関係するため、一人の患者に焦点を絞る通常の医療とは異なり、深刻な問題をかかえているのです」と、『いのちの選択 今、考えたい脳死・臓器移植』(岩波ブックレット)の中で、編者代表の小松美彦氏は述べています。
脳の機能が、まだ十分に解明されていない現時点で、「脳死=人の死」と定義するのは、明らかに臓器移植を前提とした考え方です。「科学技術に『できる』ことを、法律によって『違法ではない』ことにしたとしても、倫理的問題が解決されたことにはならない」と、『いのちの選択』の中で述べられていました。
人の命を救うことを目的とした医学の進歩は、死ぬことをも複雑にしてしまったようですね。