12月5日 8:50 PM(日本時間の6日 3:50 AM)、ネルソン・マンデラ氏が亡くなりました。
長らく患っていた肺炎のためでした。享年95歳でした。
マンデラ氏は反アパルトヘイト運動で反逆罪に問われ、27年間にわたって投獄されていました。1990年2月に釈放され、1994年に南アフリカ共和国の大統領に就任しています。
マンデラ氏は、大統領に就任しても、南アフリカにおいて少数派であった白人を、排斥したり非難したりすることをしませんでした。それまで虐げられていた多数派の黒人たちは、マンデラの呼びかけによって、白人たちを「許した」のでした。
仏教では、「怨みは怨むことによって静まらず、怨みをやめることによって静まる」(法句経)と言われています。マンデラ氏の考え方は、この仏教の教えにも通ずるものがあるのではないでしょうか。
マンデラ氏が大統領に就任した翌年に、ラグビーのワールドカップが南アフリカ共和国で開催されました。南ア代表のラグビーチームは〈スプリングボクス〉でしたが、黒人はたった一人(チェスター・ウィリアムズ)だけで、後はすべて白人でした。
だから、当時ラグビーは白人のスポーツとされ、アパルトヘイトの象徴のようにも考えられていました。マンデラ氏が大統領に就任したとき、この〈スプリングボクス〉のユニフォームの色やエンブレムが、アパルトヘイトを象徴するという理由で、変更されようとしたことがありました。
これに対してマンデラ氏は、チームへの愛着が白人の間に根深く浸透していて、このユニフォームやエンブレムが彼らの心の支えになっていることを理解し、チームカラーもチーム名にも一切変更を加えず、ワールドカップに臨もうと、国民を説得しました。
さらに、マンデラ氏は、〈スプリングボクス〉の主将フランソワ・ピナールと言葉を交わし、是非ともワールドカップで優勝してほしい、と励ましました。マンデラ氏は、スポーツが、国民の心をひとつにする助けになることを見抜いていたのです。
それまでは、弱小だったチームが、1995年のワールドカップでは快進撃し、ついに決勝まで進出します。そして、決勝戦で、最強のニュージーランド代表〈オールブラックス〉と対戦します。死闘の末、南ア代表の〈スプリングボクス〉は、ニュージーランド代表〈オールブラックス〉を15−12で下し、優勝を果たします。
このワールドカップは、スポーツを通して『ひとつのチーム、ひとつの国』のスローガンを世界に示しました。
ワールドカップ優勝に至るまでのドラマを描いたのが、ジョン・カーリンの『インビクタス 負けざる者たち』(NHK出版)。これは、2009年に、クリント・イーストウッド監督によって映画化されました。