境野勝悟氏は、仏教徒として禅宗を学んでいましたが、22歳から40歳までの18年間を、カトリック校の栄光学園の教員として過ごされました。このとき、仏教の考え方とキリスト教の考え方が根本的に違うので、周りの人とどうつき合えばよいのか悩んだそうです。
キリスト教では、「神は天にまします」で、私たちは「神の子羊」に過ぎないと考えます。一方の仏教では、お前自身が仏だ。つまり「衆生本来仏」という立場をとります。神はどこにも存在していないのです。しかも、キリスト教では、「処女で懐妊したことを認めなければならない」とあっては、ますますキリスト教の信者と仲良くできなくなってしまう。
そんなとき出会ったのが、『論語』の中の次の言葉だったのだそうです。
敬に居て簡を行う [雍也篇]
境野氏の解説を見てみましょう。
「ここに答えはありました。考え方の違う人とうまくやっていくためには「敬に居て」。まず相手を敬え。考えが違っても、相手を敬う。
つまり、私はキリスト教を敬う。神父さんも、みんないい人です。信者の人も、ほんと真面目な人たちです。だから敬う。そして、「簡を行う」。
心を大きく広くして、なんでも受け入れる。なんでも理解してやる。小さいことをゴチャゴチャいわない。それが「簡を行う」です。小さいことをゴチャゴチャいえば、不和が生じます。
自分と違う考えでも、それを寛大に受けとめてあげれば、和はどんな人と会っても成立します。「敬に居て」、じつにいい言葉です。
千利休は、和だけではいけない。敬をつけて「和敬」といった。
利休は『論語』の「敬に居て簡を行う」で相手を敬うということが和するには大切だといったのです。そして「簡を行う」。こまかい理屈をゴチャゴチャいわない。そうすればどんな人とも和することができると。」
(境野勝悟『「論語」に学ぶ人間学』[致知出版社]より)
ダライ・ラマ14世や故パウロ二世は、それぞれ仏教徒、キリスト教徒でありながら、他の宗教を受け容れるという寛容な態度をとり、宗教的立場を超えて対話をくり返しています。
まさに「敬に居て簡を行う」です。
ダライ・ラマ14世 |
ヨハネ・パウロ二世 |
故マザー・テレサに至っては、もっと徹底していました。道ばたで倒れていた人を助けて「死を待つ人の家」に引き取ったときには、まず、その人の信じている宗教を聞き出したそうです。そして、その人が亡くなるときには、キリスト教の祈りではなくその人が信じる宗教に従って祈りの言葉を唱えたと言います。
これは「敬に居て敬を行う」でしょうか?
マザー・テレサ |