2013年6月11日火曜日

第一日赤にて凌雲をしのぶ

 当直明けに、東山区にある京都第一赤十字病院の手術室を訪れました。

左手の建物が新棟

 手術室では、H先生が案内して下さり、システムの説明をていねいにして下さいました。
 ありがとうございました。

 手術室は10室。年間の麻酔科管理症例数は、約3700件。手術麻酔のみならず、外科系ICUの運営と救急救命室の外来および当直、さらに緩和ケアに、麻酔科が関わっています。
 周産期センターは産婦人科を中心に充実しています。帝王切開は、このセンター内でできるように設備が整えられていて、年間240件以上の帝王切開が、麻酔科管理の下に行われています。

 手術室内には、日勤帯は薬剤師が一名常駐し、麻薬を含む薬剤の管理をされています。聞けば、硬膜外用のPCAポンプへの薬剤充填も、手術室内に設けられた薬剤師用のブースで薬剤師さんがされているとのこと。


 赤十字社は、スイスの実業家アンリ・デュナンが提唱して設立されました。もともとは戦争において、傷ついた兵士たちを敵味方関係なく助ける、ということから始まったムーブメントでした。1863年には「戦傷兵国際救済委員会」がデュナンらによって設立され、さらに「公平、政治・経済・宗教からの独立、普遍、各国機関の平等」という四つの原則を掲げてヨーロッパ各国に呼びかけて戦傷兵や捕虜の救済活動を展開します。やがて、1867年に、この会は赤十字国際委員会と名まえを変えます。

レストランのある第一日赤の5階の窓から北を望むと
比叡山の山の端が東山と稜線をそろえて見えました。
台風が近づいているせいか、空には怪しげな雲が
広がっていました。
この赤十字精神を日本人として初めて目の当たりにし、後に貧民救済のための病院を設立することになった医師が、高松凌雲でした。彼は、渋澤栄一らとともに、1867年4月にパリに到着し、そこで捕縛された捕虜が傷の手当てを受けて本国へ送り返される場面を目撃して衝撃を受けます。当時の日本では、傷ついた敵兵を手当てして助ける、などという行為はあり得ませんでした。







林 洋海『医傑 凌雲』(三修社)

 凌雲は、パリのオテル・デューで研修を始めますが、そこで「病には身分の隔てがなく、治療を受けるのはすべての人の権利である」「病は貧困がつくる、貧困は病がつくる」という精神を身につけていきます。
 そして、彼は、帰国後は貧民医療の重要性を政府に訴え、また自らも貧民医療を実践していきました。

 フランスへ渡った当初は、己の名誉栄達を追い、己の出世の手段としてのみ医術を学ぼうとしていた凌雲でしたが、オテル・デューでの研修の中で、「医者は人のためにあり、病人に対してはその病を診て、貴賎貧富を質してはならない」という姿勢を身につけていったのでした。



これぞ、まさに赤十字精神なり