ビートルズの《レボルバー》というアルバムに、〈トゥモロウ・ネバー・ノウズ Tommorow Never Knows〉という前衛的な曲があります。「あしたのことは、分からない」といった意味の慣用句なのだそうです。
鉄腕アトムの誕生日は、原作の中では2003年4月7日だとされていましたが、いまだにアトムは誕生していません。手塚治虫さんにも、「あしたのことは分からな」かったようですね。
SF映画を作るときには、未来を映像化しなくてはなりません。そして、その未来が来てしまった時点から見ると、そこで描かれている「未来」があまりに貧弱で、がっかりすることはないでしょうか?
《ミクロの決死圏》(リチャード・フライシャー監督)という映画をDVDで見なおしました。これは、1966年のアメリカ映画で、この年のアカデミー賞の美術監督・装置、特殊視覚効果の2部門を受賞しています。
外科手術不可能と診断された脳内出血の重症を負った科学者の命を救うために、手術担当員を細菌大の大きさに縮小して体内へ送り込み、体の内側からレーザー光線を当てて治療しようという試みが行われます。ミクロの体になっていられる制限時間は、1時間。4人のクルーが潜水艇のような「船」に乗って体内へ向かいます。
いちばん短い、頸動脈からのルートをとるはずだったのが、科学者が事故にあったときにできた瘻孔(フィストゥ—ラ)から静脈系に迷入してしまいます。仕方なく、右心房から右心室へ入り、肺動脈から肺を通るルートをたどります。
そして内耳を介して脳内に侵入し、脳出血部位をレーザーで灼くわけですが、この4人の中に裏切り者が一人紛れ込んでいて、ミッションを妨害しようと謀り、一波乱が起きます。
当時としては、最新の医学知識を元に創り出された体内の様子は、けっこう美しい仕上がりにはなっています。
しかし、心臓を通過する間に一時心臓を止めるのですが、潜水艇が心臓を通過するのに要する時間を計算するときに使ったのが、コンピュータはおろか電卓ですらなくて、何と計算尺なのです。他の部屋とのやりとりも白黒画面のモニター(おそらくブラウン管テレビ)であり、計器の表示もデジタルではなく、すべてアナログなのです。1966年当時なら、画期的な映像であったものが、2014年の「実現された未来」から見ると、残念ながら滑稽に見えてしまいます。
しかしながら、この映画のわずか2年後に作られた《2001年宇宙の旅》(スタンリー・キューブリック監督 1968年)で描かれた未来の様子は、今見なおしてもゾクゾクするところがあります。宇宙ステーションの中を上下逆さまになりながら360度歩き続ける飛行士の姿など、今でも不思議な錯覚に襲われてしまいます。
キューブリック監督は、「あしたを知っていた」のでしょうか?