原作とはいくつか異なる細かな違いはあったものの、映画だけを観ても十分感動できる作品に仕上がっています。原作で詳細に語られる戦闘・戦況を 読むのはけっこう骨が折れましたが、CGを駆使した「動く映像」として見せられると、その迫力が直接伝わってくるので、映画の大画面は一見の価値がありそうです。
百田尚樹『永遠の0』[太田出版] |
ストーリーについては、零式戦闘機の操縦士であった祖父、宮部久蔵の生き方にまつわる謎解きを孫がしていくという展開で、詳しく語ると「ネタばらし」になってしまうので控えます。ただ、宮部久蔵の過去を知る人物の一人、原作では元やくざという設定の景浦介山は、宮部久蔵と対照的な存在として際立っていました。
宮部久蔵は、零戦ファイターとしては、一流の腕をもっていましたが、決しておごることもなく、部下に対しても丁寧な口調で話しかける人物でした。
一方の景浦介山は、宮部と同じ隊に属していて、敵機を何機撃墜したかということに価値を見出す男でした。態度も言葉遣いも荒かったのですが、零戦の操縦については、宮部久蔵の方が一枚上手だということを認めていました。
この二人を見ていて思い出したのが、『論語』の中の次のような言葉でした。
勇にして礼なければ則ち乱る。(勇ましくしても礼によらなければ乱暴になる)[泰伯第八](金谷治訳)
安田登氏は、「勇」の古い字は「用=庸(つね=常)」に通じ、常なる心、「変わらない心」だと説明しています。常なる信仰を変えずに持つ。これが「勇」だと言います。「孔子が生きていた春秋時代末期も(そして現代も)価値観がころころと変わってしまう時代です。だからこそ、ころころ変わる表面的な似非(えせ)心理ではない、本当の「義」を知る、そしてその義に従う「勇」が求められています」と安田氏は述べています。(安田登『身体感覚で『論語』を読みなおす。』[春秋社])
『永遠の0』の宮部久蔵は「勇」の人でした。戦時中から、戦闘で命を落とすことを良しとせず、生きて祖国に帰りたいという意志を貫いていました。
一方の景浦介山は、「乱」の人でした。安田氏は言います、「乱を起こす人は、自分が反乱しているという気持ちはありません。世の中をよくしよう、世直しをしよう、そう思って行動する。しかし、それが結局は余計に世の中をぐちゃぐちゃにしてしまう。それが「乱」なのです」と。
零戦ファイターとしての宮部と景浦は、実力的にはきっと伯仲していたのでしょう。しかし、戦闘についての価値観がまったく違っていました。ふだんの言葉づかいや態度も二人はまったく違っていました。宮部は「勇」となり、景浦は「乱」となる。この二人の違いは、「礼」をそなえているか否かだったのではないでしょうか?
「丁寧なコトバ」というのは、ひとつの礼です。
「たとえば、遠くにあなたのカバンがあって、それを取りたいとします。その近くに知人がいる。彼に向かって丁寧なコトバで「それを取っていただけますか」という。すると彼はカバンをここまで持ってきてくれます。」
このように、「丁寧なコトバ=礼」には魔術のような力がそなわっているわけです。「丁寧なコトバ」という微小なエネルギーで、重たいカバンを結果的に自分の手元まで引き寄せることができたのですから。スターウォーズのジェダイの騎士のように、フォースの力でカバンを動かす努力と比較すると、この「丁寧なコトバ」には、やはり魔術のような力がそなわっていると言えるのではないでしょうか。
映画の中で、宮部久蔵が、部下に対するときでも決して威圧的な言葉づかいも乱暴な言葉づかいもしていなかったのが、当時の状況下では異様にも見えましたが、きっと彼は、つねに「礼」を意識していたのでしょう。その意識があったので、腕のたつ零戦ファイターになっても、決しておごることのない、「勇」の人物でありつづけられたのはないでしょうか。