2014年1月21日火曜日

思いやりの心の原点

 2011年1月号の『科学』(岩波書店)という雑誌に「〈利他〉の心と脳・社会・進化」という特集がありました。

 この中で、総合研究大学大学院大学の長谷川眞理子さんは、「サリーとアンの課題」を紹介しています。

 (1)サリーとアンがいて、サリーが箱の中におもちゃを入れて、部屋を出て行く。
 (2)サリーがいない間に、アンがそのおもちゃを箱から出してかごの中に入れ替えてしまう。
 (3)戻ってきたサリーは、おもちゃがどこにあると思っているだろうか?
 この一部始終を見えていたあなたは、おもちゃはすでに箱からかごの中へと動かされていることを知っています。
 でも、その場に居合わさなかったサリーは、そのことを見ていないので、おもちゃはまだ箱の中にあると思っています。

 これを人形劇形式で子どもたちに見せて、「さて、部屋に戻ってきたサリーちゃんは、おもちゃを取るために、箱とかごのどちらを探すでしょうか?」と質問します。
 すると、4〜6歳くらいまでの子どもたちは、「かごの中」と答えるのだそうです。自分が知っていることを素直に答えるわけです。

 サリーちゃんの立場に立てば、サリーちゃんは部屋に戻った時点では「おもちゃはまだ箱の中に入っている」と思い込んでいるので、この場合子どもたちは「箱の中」と答えられるのです。こうした、他人の立場でものごとを考えられるようになるのは、4〜6歳より大きな子どもたちなのだそうです。

 同じ雑誌の中で、京大こころの未来研究センターの内田由紀子さんは、「日本社会の構造が思いやりに依存して成り立っている」と言い、「自分が頼まなかったにもかかわらず、相手がサポートを提供してくれれば、それは相手が自分の状況によく注意を向け、自分のことを考えてくれたというサインとみなすことができる。したがって、そのようにして受けとったサポートは、まさに相手の「思いやり」の結果としてとらえられ、相手との結びつきの感覚を強めると考えられる」と述べています。

 これは、つまりはサリーちゃんの立場でものごとが考えられる人でないとできない行為なのです。

 先の「サリーとアンの課題」だったらサリーちゃんの立場で正解を出せた大人でも、日常生活の中では、なかなか相手の状況に注意を向けたり、相手のことを考えたりすることがむずかしくなってしまうことがあります。


 日常の手術の現場で、直接介助ナースの動きを見ていると、外科医が、たとえば「ペアン」と言ったと同時に、外科医の手の中にサッとペアンを渡す、といったような場面を目撃します。こんなとき、直接介助ナースは、外科医の心を読んで、次はペアンだな、と構えているのでしょうね。