2013年11月4日月曜日

全身麻酔と無の境地

 漱石の『夢十夜』という小品の第二夜に、悟ろうともがいている侍の話が出てきます。


 「お前は侍である。侍なら悟れぬ筈(はず)はなからうと和尚が云った。さう何日迄(いつまで)も悟れぬ所を以て見ると、お前は侍ではあるまいと言った。人間の屑(くづ)ぢゃと言った。はゝあ怒ったなと云って笑った。」
 挑発された侍は、座布団の下に短刀をしのばせています。隣の間の置き時計が次の刻(とき)を打つまでに悟れば、和尚の首をはねる。しかし、悟れなければ自害する、と侍は心に決めていました。

 しかし、悟ろうと焦ると、雑念ばかりが浮かんできます。「懸物(かけもの)が見える。行燈(あんどう)が見える。畳が見える。和尚の薬罐頭(やくわんあたま)がありありと見える。鰐口(わにぐち)を開いて嘲(あざ)笑った声まで聞こえる。怪(け)しからん坊主だ。どうしてもあの薬罐を首にしなくてはならん。悟ってやる。だ、だと舌の根で念じた。だと云ふのに矢っ張り線香の香(にほひ)がした。何だ線香の癖に。」



 心を無にする、というのは意外にむずかしものです。他人が自分を見ている目が気になる。他人が見ていると思い込んでいる自分自身が気になる。…たとえ、周りの誰一人として自分に注目していなくても、自分の中に、やはり他人の目を気にしている自分がいる。

 自分の内面ばかりではなく、自分の周りの出来事についても同じようなことが言えます。俵万智さんの短歌に、「『この味がいいね』と君が言ったから七月六日はサラダ記念日」というのがありました。このように、女性は、何々記念日というのをとても大事にします。クリスマス、バレンタイン、誕生日、結婚記念日、等々。これらの日は、一日前の日とは別格、ましてや相手の男性が忘れて翌日にお祝いの言葉を述べようものなら、二人の仲にヒビが入りかねません。

 しかし、禅の考えでは、誕生日とか特別な記念日だけを大切にするのではなく、いつも感謝の気持ちで食事に向かうのと同じように今日という日を始めることが大切であり、それを続けていくのが人生なのです。

北國新聞社編集局編
『禅 ZEN 鈴木大拙』
(時鐘舎新書)


 聖路加国際病院の日野原重明先生は、鈴木大拙氏が1960年に90歳でアメリカから帰国されたときから、氏の主治医を務めておられました。

 あるとき、日野原先生が、禅のエッセンスを書いてほしいとお願いしたところ、鈴木大拙氏が書いたのが、「無事」という色紙だったそうです。「無事」というのは、「事無(ことな)し」という禅語で、与えられた一日を感謝と満足で過ごすこと、日々はくり返しではなく、今日しかない一日として受けとることだと、鈴木大拙氏は日野原先生に話されたそうです。(北國新聞社編集局編『禅 ZEN 鈴木大拙』[時鐘舎新書]より
 





 

鈴木大拙筆 『無事』

 己の心を無にする、というのは、全身麻酔にかかったときのような状態をさすのでしょうか?
 意識はなく、外界からの刺激に対しても反応しないのだけれども、実体としての体は存在して生きています。全身麻酔下では、さすがに他人の目は気にならないでしょう。手術台の上では、社長も教授もスターも庶民も、みな生まれたままの姿で横たわっています。肩書きも貴賤の区別も美醜もいっさい関係ありません。
 ある意味、座禅を組むよりも全身麻酔を施される方が悟りを開く近道かもしれませんね。ただ、残念ながら、悟りを開いたと意識できる自我すらないので、麻酔から覚醒すると、みな普通の生活にもどってしまうのでしょうね。