2013年11月14日木曜日

月も雲間のなきは、嫌にて候

 今日は、四条烏丸のCOCON烏丸にある、AUX BACCHANALESで、11月に赴任されたMs先生の歓迎会が行われました。


 大皿に盛られたフランス料理が次々と出されて、お腹が一杯になりました。お店の名前は、「オーバカナル」。バカナルというのは、フランス語で酒神バッカスのことらしく、「オーバカナル」で「大騒ぎで」という意味になるのだそうです。






 夕方から雲が厚く、風に流れる雲間から、月齢11の白い月が見え隠れしていました。学生の頃に、下宿屋の窓から満月を眺め、雲で月の表情がどんどん変わっていくのを、すばやく、何枚も何枚もスケッチしたことがありました。

 山本兼一の『利休にたずねよ』(PHP研究所)の中に、こんな文章がありました。

「月も雲間のなきは、嫌にて候。
 曇りなき満月を愛でるより、雲のかかった閑寂な月をいつくしむのが佗(わ)び茶である。」








 雲間に見え隠れする月は見飽きませんが、雲なき美空に明るく輝く月は、変化がない分、見ていてつまらなくなるものです。
 完全なシンメトリーの顔の美人がいたら、かえって不気味に見えるかも知れません。人間も、左右のバランスが微妙にくずれているから魅力が出ることもあるのではないかしら?





 性格についても同じことが言えるのではないでしょうか?
 完全に善、完全無欠な人物は、あまり魅力を感じないかも知れません。利休は、秀吉に献上したくない石灯籠をわざと欠いて、「傷ものだから献上できない」と言い訳したそうですが、その欠けた灯籠がかえって美しいと言いました。
 人間の性格も、善の中にちょっと悪魔的な炎が見え隠れするときに、ゾクッとするような魅力が表れるものかも知れませんね。ちょうど、モーツアルトの長調の曲に、突然短調のメロディラインが現れてゾクッとするような感覚でしょうか?