2013年11月26日火曜日

君子は義に喩り、小人は利に喩る

 『論語』は、今から2500年以上も前に書かれたものです。ですから、ひとつひとつの言葉についても、現代の世情に照らして、さまざまな解釈がなされています。

 たとえば、〈里仁第四−十六〉の言葉:

 子曰わく、君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る。


 金谷治訳では「君子は正義に明るく、小人は利益に明るい」となっています。(金谷治訳注『論語』[岩波文庫]



 貝塚茂樹訳では「りっぱな人間は義務にめざめる。つまらぬ人間は利益に目がくらむ」貝塚茂樹訳注『論語』[中公文庫])と、「義」の解釈が違っています。貝塚氏は、「〈義〉とは、人間のしたがうべきもの、正しい道理、筋道であるが、利にたいして使われるときは義務を意味する」と注釈しています。
 「正義」と「義務」では、かなり印象が違いますね。















 慶應丸の内シティキャンパス夕学プレミアム『agora』で、社会人に向けて、田口佳史氏が講義したときは、次のように解説がされていました。
「欲望には、大きく分けて二種類の願望が潜んでいます。
 ひとつは「世のため人のために貢献し、みんなが幸せになることによて、自分も悦びに満たされたい」という気持ち。これが「義」です。
 もうひとつは「自分がいい思いをしたい」という願望。これが「利」です。
 欲望の多くは、後者の「利」から生まれるものでしょう。「利」という誘惑に、人間はとても弱いのです。
 でも、そんな誘惑に負けるようでは、大した人物ではない。立派な人は「義」を重んじるものだ、と孔子は指摘しているんですね。」田口佳史『論語の一言』[光文社]





 明治大学文学部教授の齊藤孝氏は、もっとビジネスに即した解釈を提議しています。

「組織が新人を採用する時、もしリーダーが自分より優秀な人をすべて落とし、凡庸で従順な人ばかり選んだとしたらどうなるか。おそらくリーダーの地位は安泰だろうが、組織は間違いなく衰退する。自明の理だろうが、現実にこういう組織が少なくない。
 孔子に言わせれば、ここでどういう選択をするかによって、「君子」と「小人」の差が生まれる。あくまでも利益を追求するのが小人、公明正大さや公共的な価値を優先するのが君子というわけだ。」そして、人間というものは「利」に走りやすいので、逆に「義」が強調されているのだと解釈しています。「義」という文字が重ければ、「フェアであること」と言い換えてもよいと齊藤氏は述べています。(歴学編集部編『世界一の教科書に学ぶ論語ビジネス塾』[ダイヤモンド社]




 慶応高校の生徒のアンケートで、最も人気を博した授業をされていた佐久協氏は、高校生が聞いてうなづけるような『論語』の訳をしてくれています。

「ひとかどの人物になりたければ道義中心に生きることだよ。凡庸で終わりたければ利益中心でもよかろうがね。」佐久協『高校生が感動した「論語」』[祥伝社新書]
 このように訳してもらうと、単なる人間観察に基づく、人間の「分類解釈」にとどまらず、自分自身の生きる指針として『論語』を活用する気になってきますね。




 ユニークなのは、女性の立場から『論語』を訳してみた祐木亜子さんの解釈です。

「人を泣かせて儲けるな
  お金持ちになりたい。
  そう思うのはけっして悪いことじゃないよ。
  でも、間違ったことをして得たお金、
  他人を陥れて手にしたお金は、
  あなたの心を罪悪感で縛りつけちゃう。
  自分の損得ばかり考えるのをやめて、
  世の中の幸せを願って働こう。」
祐木亜子『女子の論語』[サンマーク出版]) 









 以上は、日本人の解釈ですが、本場中国の人たちは、どのように解釈をしているのでしょうか?北京師範大学教授の于丹(ユーダン)女史は、次のように解説しています。

「さて、ここで1つの疑問が生じます。君子というものは、個人の利益を犠牲にしなければならない存在なのでしょうか。
 じつは、孔子は、個人が利益を手にすること自体は否定していません。むしろ、個人の利益は利益として享受し、その上で豊かな人間関係を築くべきだと主張しています。
 つまり、孔子が教えるところの「人間関係」とは、個人的利益の保障を前提としており、この前提にそって人間は社会に尽くし、奉仕することが大事であると説いています。

 ただし、孔子は、「個人が利益を求める際には、必ず正しい道を選ぶべきである」とも言っています。安易に近道を求めて、小さな得をしようと思ってはいけません。孔子は、「正しい道を選ぶか、近道を選ぶかが、君子と小人を見分けるポイントだ」と考えていました。」于丹『論語力』[講談社]