2013年11月2日土曜日

金沢でリフレクションについて考えた

 臨床麻酔学会の合間をぬって、兼六園と鈴木大拙館を駆け足で訪れました。

 兼六園は、金沢城の外郭として加賀藩によって作られた庭園で、日本三名園のひとつとされています。瓢(ひさご)池と霞(かすみ)ヶ池という二つの池が印象的な庭です。
兼六園霞ヶ池

霞ヶ池に映る雪吊りの縄

 池があるために、水面に木々や空が逆さに映し出されて、幻想的な景色を造り出しています。この水面に映った像のことを、英語ではreflectionと言います。このreflectionには、「省察・内省」という意味もあります。省察とは、自分が行った行為、発言した言葉などについて、それが正しかったのかどうかをふり返ることです。

 ちょうど、唐崎の松の枝に雪吊りの縄が張られた後で、霞ヶ池にはその幾何学的な縄のreflectionが映っていました。









鈴木大拙館でもらったパンフレット


 兼六園から南へバス停でひと駅分下がった本多町というところに、鈴木大拙館があります。鈴木大拙は、仏教哲学者として、世界に禅の思想を広めた学者として知られています。

















生誕の地にある鈴木大拙の彫像

 彼は、加賀藩の藩医の子として、金沢市本多町で生まれました。生誕の地には記念碑が建てられています。
 民家の並ぶ町並みの奥に、鈴木大拙館はありました。これは、いわゆる、ものを展示するという意味での博物館ではありません。展示計画の方針は、パンフレットにはこう書かれていました。


 単にものを鑑賞する場とせず、来館者が自由かつ自然な心で鈴木大拙と出会うことにより、そこから得た感動や心の変化を、自らの思索につなげていくことを基本方針としています。
 展示空間で配置される書や写真、著作など鈴木大拙を真っ直ぐに伝える芯のある資料から大拙を「知る」ことに始まり、学習空間で鈴木大拙の心や思想を「学ぶ」ことを通し、さらに、思索空間で自ら「考える」ことに至る3つの行動を、施設計画と一体となって展開する構成としています。

 建物は、直線的なレイアウトになっていて、思索空間にあてられている建物は、周囲が池に囲まれています。だから、建物が水面に映し出されて、ここでもreflectionを見ることができます。
鈴木大拙館の思索空間の建物

 『論語』の中に、こんな言葉があります。
 曾子曰く、吾れ日に三たび吾が身を省みる。人のために謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、習わざるを伝うるか。(学而篇)

 ここで、「三たび」というのは、三度だけ、という意味ではなくて、何度も、という意味です。意味は、「わたしは毎日何度もわが身について反省する。人のために考えてまごころからできなかったのではないか。友だちと交際して誠実でなかったのではないか。よくおさらいもしないことを[受け売りで]人に教えたのではないかと。」(金谷治訳)

 鈴木大拙館の思索空間に座ると、自然とわが身をふり返りたくなりますが、禅の世界では、実体と反映というものの区別もしないかもしれませんね。
 道元の言葉に「生死(しょうじ)の中に仏あれば生死なし」というのがあります。ここで言う「仏」は、仏像で象徴される仏さまではありません。内山興正氏は、この「仏」を「天地一杯」のことだと表現しています。

内山興正『正法眼蔵 生死を味わう』
(大法輪閣)

 たとえば、冬になる前に植えたチューリップの球根が、春になると一斉に芽を出し、色とりどりの花を咲かせたとします。赤あり白あり黄色あり…。それらのさまざまな色はどこから出てきたのか?
 内山氏は、初めは「ははァ、土の中から出てきたのだな」と思っていたそうですが、「いや待てよ、植物は空気中からも光や炭酸ガスを吸収するという。すると空気中からもこの色が出てきたに違いない」と気づいたときに、ようやく呑み込めたのだそうです。
 つまり、花の色も、花の生命も、実は「天地一杯」のところから来るのだ。それも忽然としてくる、あるいは忽然として去る。同じように、私もあなたも、一切のものが天地一杯のところから来ている。天地一杯の生命に生かされているのです。


 仏さんというのは生死なのだから、別に生死のなかに仏という別物があるわけではない。生死のなかに、仏という別物さえ見なければ、何も迷うこともないのです。仏即生死、生死即仏、それだけのことだ、と説きます。

 Reflectionというのは、「生死の中に仏あれば生死なし」という境地に至る前段階で必要なのかもしれませんね。