つまり、どちらが先に来るかは誰にもわからない、という意味です。
今朝、一人の幼児が亡くなりました。
昨日、小児科病棟から麻酔科に挿管を依頼された子どもでした。重症の免疫不全症があって、間質性肺炎をくり返していましたが、治療に反応せず短い人生の幕を閉じました。再起をかけた二度目の骨髄移植を試みる直前でした。
ダライ・ラマ『いのちの言葉』 (世界文化社) |
ダライ・ラマ14世は、仏教では死は終わりではないと説いています。
「誕生は人生の一部であり、死もまた人生の一部。すべてのいのちあるものが通る道なのです。仏陀も多くの人と同じように世を去りました。」
「私たち仏教徒は、数え切れないほど多くの前世があり、数え切れないほどの来世があると信じています。今世だけがすべてではないと考えれば、自然にゆったりとした気持ちになれます。死は来世への旅立ちにすぎません。」
「死が訪れても驚くことはありません。心配もいりません。死とは衣装を着替えるようなものです。」
幼い子どもには、「命」に対して打算も欲もありません。「命」というものが今世の借りものの体に、一時的に宿っているのだと考えれば、幼くして亡くなる子どもは、その体が弱かったのだと考えればよいのでしょうか?この宇宙のどこかに体を離れた「命」というものが漂っているのでしょうか?
人は誰でも必ず死ぬ。確かにそうなのですが、親より先に自分の子どもが死んでしまうというのは、そう簡単には受け容れられそうにありません。