道元『八大人覚』シリーズ 第五回
『八大人覚』の第五番目は、不忘念。
内山興正師は、かつて老師からこの「不忘念」の段を講義しろと言われたときに、うっかり「不妄念」と読み違えてしまっていたことを告白されています。講義の直前になって読み違えていることに気づいて、どうにか取り繕ったそうです。(内山興正『正法眼蔵 八大人覚を味わう』[大法輪閣])
毎日座禅を組んでおられる禅僧でさえ、誤解するくらいなのだから、むずかしい概念なのだと思います。
ドイツ人のネルケ無方師の訳が、いちばん分かりやすかったので、この段の解釈をネルケ訳で紹介しておきます。
「五つ目は『不忘念』である。…ものごとのあるがままの姿を正しくとらえる力を持ち続けること。このことを名づけて正念としている。
…もし自分の力で、ものごとのあるがままの姿を正しくとらえることができる者があれば、さまざまな煩悩の誘いが入りこむ隙を与えないであろう。であるから、あなたたちは、いつなんどきであっても、ものごとを見極める眼を持ちつづけ、自分の中心においておくべきなのだ。…もし、その力が堅く強いものとなれば、欲がうずまいた場所にあっても、自分が害されることはない。たとえば鎧をつけて戦いにのぞめば、おそれるものがないようなものだ。
このことを『不忘念』と名づけている」
中から、奇妙な「生物」が現れました |
ふだん、目に映る姿、耳に聞こえる言葉の奥にある「本質的」なものを見極める。その姿勢を座禅のときだけでなく、食事のとき、仕事をしているとき、遊んでいるとき、常に忘れない、それが「不忘念」なのでしょうか?