2013年5月11日土曜日

やっかいなのは世間の目

 好評の八大人覚(はちだいにんがく)シリーズ(いつからそんなシリーズができたのだ?)の第三回目は、「楽寂静(ぎょうじゃくじょう)」です。

 道元の八大人覚の中では、「世間のさまざまな繁華なところから離れて、静かな場所に身をおくことを『楽寂静』という」(ネルケ無方訳)とあります。
ネルケ無方師
曹洞宗安泰寺九代目堂頭
(『考える人』No.36 2011より)
楽(ぎょう)というのは、楽しむことではなく、「願う」とか「好む」という意味です。寂静(じゃくじょう)の元々の意味は、煩悩の炎がいっさい吹き消されて、ほとんど「無」のようになった境地のこと。



 禅の修行というと、人里離れた山寺での座禅を思いうかべます。兵庫県の北の山中にある曹洞宗・安泰寺の九代目住職はドイツ人のネルケ無方師です。ネルケ無方師は、最近の著書『禅が教える「大人」になるための8つの修行』(祥伝社新書)の中で、楽寂静とは、ただ山にこもればよいということではない、と述べています。

日本には、「横並び」という言葉があります。これは、世間の目、いわゆる世間体を気にして、できるだけ目立たないようにしようという発想です。自分自身、ほかのみんなと違ったことはやろうとせず、他人についても異端者や少数派を認めないという態度をとりがちです。こんなとき、ときには「自分自身の意見や主張」はあえて控えてしまうようです。
 しかし、ひょっとしたら、自分の意見だと思っているものも、案外誰かの考えをどこかで読んで、自分の考えだと思い込んでいるだけかもしれませんね。
 こうした「横並び」の発想をしりぞけ、世間体を気にせず、自分自身を静かに見つめてみようというのが楽寂静なのでしょう。



安泰寺に向かう山中の石段
(同上)
曹洞宗・安泰寺
(同上)



 













 ついつい周りの目(評価)を気にしてしまうのは、初期研修中の研修医ばかりではなく、指導する立場の医者でも同じでしょう。否、むしろ、地位や名誉がともないがちな年齢に達した医者の方が世間体を気にしているかもしれませんね。

 自分より若い後輩医師が○×病院で部長になったのをうらやむ、あるいはうらむ。「ああ、オレは後輩に負けてしまった」と考えたりするのも世間の目を気にしているからでしょう。あるいは、「自分の実力だったら、こんな安い給料ではとうてい働けない」などとうぬぼれるのも、結局は他人との比較から出てくる愚痴なのでしょう。

 ネルケ無方師は、楽寂静とは言いかえると「よそ見をしない」ことだと言っています。他人との比較をしない状態、それが寂静なのです。この状態に身をおくためには、世間の騒音から逃れるのではなくて、自分自身の心の中にある騒音にまず気づくことが必要だと説いています。