2013年8月4日日曜日

動的平衡に麻酔がおよぼす「効果」とは?

 たとえば、酢酸を水に溶かした場合の反応をみると、
     CH3COO⁻+ H⁺ ⇄ CH3COOH
 と、反応が双方向性になっています。

 こういう反応は、可逆反応と呼ばれています。つまり、条件次第で、反応は右へも進むし、左へも進むのです。たとえば、酢酸の水溶液に、もっと強い塩酸なんかを加えると、反応はどんどん右へ進みます。逆に、水酸化ナトリウムのようなアルカリを加えて酸( H⁺)を減らすと、反応はどんどん左へ進みます。

 全身麻酔と意識の反応を考えるとき、次のような可逆反応が成り立っているように見えます。
     意識 + 全身麻酔薬 ⇄ 無意識
 全身麻酔薬を与え続ける限り、反応は右へ進み、無意識の状態は維持されることになります。逆に、麻酔から覚醒させるときには、全身麻酔薬を取り除けば、反応は左へ進んで、やがて意識が戻ります。

 酢酸の電離では、一定の条件の下では、水素イオン(H⁺)はある一定の割合で水溶液の中に存在しています。このとき、イオン化している水素は、いつも特定の水素(たとえば、与太郎)と決まっているわけではなくて、酢酸分子の中にいる水素(たとえば、熊さん)と頻繁に入れ替わっているのです。でも、与太郎水素と熊さん水素が入れ替わったからといって、酢酸という物質の性質が変わるわけではありません。酢酸はやはり酢酸なのです。この状態を動的平衡状態と呼んでいます。
 
 全身麻酔では、意識の一部が全身麻酔薬で置き換わるのではないので、可逆的ではありますが、全身麻酔薬と意識が動的平衡状態にあるとは言えません。

 私たちが日ごろ食べている食物は、体内に吸収されて、炭素や水素や酸素や窒素という分子レベルにまで分解されて、やがて体を構成するタンパク質などに再構成されています。したがって、今現在のあなたと一年前のあなたは、分子レベルで比べると、体の大部分がすっかり更新されているのです。それなのに、「あなた自身」という意識は、ずっと保存されていますね。
福岡伸一『生物と無生物のあいだ』
(講談社現代新書)

 福岡伸一氏の『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)によれば、ルドルフ・シェーンハイマーという科学者が、窒素の同位体を含んだエサをネズミに食べさせるという実験で、食べたエサの中の同位体元素が、ネズミの体内に取りこまれていたという結果を示して、この状態を「身体構成成分の動的な状態」(The dynamic state of body constituents)と呼びました。
 福岡氏は、この「動的な状態」(dynamic state)という概念をさらに発展させて、化学と同様に「動的平衡」(dynamic equilibrium)という言葉を導入したいと述べています。








福岡伸一『動的平衡』(木楽舎)


 福岡氏は『動的平衡』(木楽舎)の中では、さらに次のように述べています。

「可変的でサスティナブルを特徴とする生命というシステムは、その物質的構造基盤、つまり構成分子そのものに依存しているのではなく、その流れがもたらす「効果」であるということだ。生命現象とは構造ではなく「効果」なのである

 全身麻酔薬は、生命現象そのものを停止するものではありません。しかし、生命現象の一部である意識の活動は一時的に減弱ないし停止させるものです。福岡氏の言うように、意識も物質そのものに依存するものではなく、その流れがもたらす「効果」の表れであるとすれば、全身麻酔薬というのは、体内に取りこまれて、その流れを阻害(あるいは変更)するものだとは考えられないでしょうか?



 かつて、アメリカの化学者ライナス・ポーリングは、すべての全身麻酔薬(吸入麻酔薬をさしていると思われる)は、水のクラスター形成を安定化し、小さな結晶水和物を作り出すことを見つけました。そして、ポーリングは、水分子と水分子とがお互いにくっつきやすい状態をつくることが、全身麻酔薬に共通する分子機序であることを発見したのです。
中田力『脳のなかの水分子』
(紀伊國屋書店)

 中田力氏は、このポーリングの説を発展させて「脳の渦理論」の概念を提唱していますが、麻酔科学の世界では、残念ながらこの理論はあまり注目されてはいないようです。
 しかし、全身麻酔薬が特異なレセプターに結合するわけでもないのに、意識を奪う働きができるのは、ひょっとしたら、こうした脳内の水分子の流れに変調を来すことが原因である、という考え方が案外核心に迫っているのかもしれませんね。