瞳孔は開き、心臓は早鐘のように打ち、血圧が上昇し、筋肉は緊張していつでも動ける準備ができている、といった具合です。こうした反応は、交感神経の緊張によるものですが、こうした一連のストレス反応を〈闘争か逃走か〉反応と表現することがあります。
この〈闘争か逃走か〉反応の対極にあるのが、〈安らぎと結びつき〉システムです。しかし、こちらの方の呼び名は、あまり馴染みがないと思います。生理学者の興味も、どうやら〈闘争か逃走か〉システムの方に偏っているらしく、九割程度の研究が〈闘争か逃走か〉システムに関するものなのだとか。
人(他の哺乳類も同様)が「よりよく」生きていくためには、この二つのシステムの片方だけでは不十分で、両者がバランスよく配分されることが必要だと考えられています。
そして、この〈安らぎと結びつき〉システムの主役が、オキシトシンという物質だと、最近の研究で明らかになってきました。
手術場でオキシトシンというと、帝王切開のときに、ベビーが娩出された後に投与される物質(アトニン®)として知られています。これは、子宮の収縮を促進させて、胎盤の娩出を助ける目的で投与されています。このオキシトシンという物質には、実は、もっと多彩な生理現象を引き起こす力があることが分かってきたのです。
スウェーデンの女性生理学者である、シャスティン・ウヴネース・モベリさんは、『オキシトシン 私たちのからだがつくる安らぎの物質』[晶文社]の中で、オキシトシンのもつ広汎な生理学的作用について解説しています。
オキシトシンは、子宮収縮とお乳を出すという働きの他にも、さまざまな効果を発揮しますが、モベリさんは、これらの多岐にわたる効果は、いずれも、「ヒトを含めた動物の、成長と生殖への要求を満たす助けになるものだ」と要約しています。
中でも興味深いのは、「社交性と好奇心による行動を促す力」です。生殖のためには、性交、授乳、子育てなどができなくてはならないので、ある程度の社交性が必要となります。見知らぬ相手に近づくためには、人にとっても動物にとっても不安を軽くする必要があります。これを助けるのがオキシトシンの役目なのです。
オキシトシンの木:オキシトシン効果のほとんど共通の特徴である 「成長」が、オキシトシンの木の幹になっている。 (シャスティン・ウヴネース・モベリ『オキシトシン』より) |
このオキシトシンは、体内では、ホルモンとして働く場合と神経伝達物質として働く場合があります。外から補充する場合は、経口的に投与されるとすぐに消化されてしまうので体内に取り込めず、また、静注しても血液脳関門を通過しにくいので脳内に入りにくいという性質をもっています。
しかし、幸いなことに、マッサージその他のタッチ療法などで、内因性のオキシトシンを増加させることができるのだそうです。
オキシトシンに注目した、もう一人の学者がいます。経済学者から医学者に転身したポール・J・ザックさんです。かれは、徹底して人を対象として、オキシトシン濃度をはかり、場合によりオキシトシンを投与して、どのような場面でオキシトシンが増えるかを検討しました。
その結果、彼は、「一日8回ハグすれば、オキシトシンが増えて、人は他人を思いやることができる」と主張しています。実際、彼は、訪ねて来た人を必ずハグするので、マスコミからドクター・ラブとあだ名をつけられたとか。(ポール・J・ザック『経済は「競争」では繁栄しない』[ダイヤモンド社])
彼が、TEDで行ったスピーチは、人気があって、200万回以上視聴されています。このTEDスピーチは、彼の著書の前半部の内容になっています。
確かに、種の保存という観点からすれば、見知らぬ相手に出会って、〈闘争か逃走か〉システムばかり働かせていたのでは、他の個体と親密な関係がもてなくなって、種は滅んでしまうかもしれませんね。
モベリさんは、「オキシトシンの放出は人と人との間、とりわけ母と子の間に感情的な絆を形成する」と言っています。さらに「良好な人間関係は、直接的なタッチだけでなく、支えあっていることや温もりや愛を感じることによて、〈安らぎと結びつき〉システムを活性化すると思われる」と控えめに主張しています。
ただでさえ、ストレスの多い現代社会においては、今後、〈安らぎと結びつき〉システムを活性化させることに注意を注がなければならないのかも知れませんね。