2014年2月18日火曜日

おてんとさまに顔向けできねぇ…

 昨日紹介した、脳外科医エベン・アレグザンダーの『プルーフ・オブ・ヘブン』を読んでいて、もうひとつ気になったのは、臨死体験で記憶に残った「不思議な世界」=「現実の世界を超えた超自然的な存在」ととらえている点でした。


 確かに、臨死体験から、この世の現実世界以外の「世界」ないしは「存在」に気づくという人はいるようです。
 『生きがいの創造』シリーズで知られた飯田史彦さんも、脳出血時に経験した臨死体験の際に「まぶしい光たち(高次の存在)」ないしは「究極の光」から「物質や理論の束縛から離れて、真に人を救う方法について研究し、実践し、出逢う人々に直接伝えなさい。」というメッセージを受けとったと言っています。




 キリスト教的世界観では、どうしても現実の(物質的な)世界に対して、天国や精神的なもうひとつの世界があるという二元論的な世界観に支配されてしまいがちです。もっとも仏教でも浄土思想という、死後の世界を考える流派もありますが、原始仏教では、実はあの世については触れていません。
 道元は、「生死(しょうじ)のうちに仏あれば生死なし」と言って、二元論的な考え方を否定しています。つまり、すべてのものに仏性(ぶっしょう)があり、これは普遍で、今のこの世は、その仏性の顕れのひとつに過ぎないという考え方なのですね。

 禅宗の内山興正氏は、この「仏」のことを「天地一杯」と文学的に表現しています。

「花の色も、花の生命も、実は『天地一杯』のところから来るのだ。それも忽然として来る、あるいは忽然として去る。…よく考えてみると、もともと私もあなたも、一切のものが天地一杯のところから来ている。天地一杯の生命に生かされているということです」内山興正『正法眼蔵 生死を味わう』[大法輪閣]

 内山氏は、「生死」と題する詩も作りました。
 「手桶に水を汲むことによって/水が生じたのではない/天地一杯の水が/手桶に汲みとられたのだ/手桶の水を/大地に撒(ま)いてしまったからといって/水が無くなったのではない/天地一杯の水が/天地一杯のなかに/ばら撒かれたのだ/人は生まれることによって/生命を生じたのではない/天地一杯の生命が/私という思い固めのなかに/汲みとられたのである/人は死ぬことによって/生命が無くなるのではない/天地一杯の生命が/私という思い固めから/天地一杯のなかに/ばら撒かれたのだ」

 釈迦(ブッダ)と同時代を生きた孔子は、「怪力乱神を語らず」(怪異と暴力と背徳と神秘とは、口にされなかった)[述而第七]と言いながら、『論語』の中では、ときどき「天」という言葉を使っています。

「夫子これにちかって曰く、予が否(すまじ)き所の者は、天これを厭(た)たん、天これを厭たん」(先生は誓いをされて「自らによくないことがあれば、天が見すてるであろう、天が見すてるであろう」と言われた。)[雍也第六]
「子の曰く、我を知ること莫(な)きかな。子貢が曰く、何すれぞそれ子を知ること莫からん。子の曰わく、天を怨みず、人をとがめず、下学して上達す。我を知る者はそれ天か」(先生が「わたしを分かってくれるものがないねえ」といわれたので、子貢は〔あやしんで〕「どうしてまた先生のことを分かるものがないのです」といった。先生はいわれた、「天を怨みもせず、人をとがめもせず、〔ただ自分の修養につとめて〕身近なことを学んで高遠なことに通じていく。わたしのことを分かってくれるものは、まあ天だね。)[憲問第十四]
…etc.

 そう言えば、日本には、昔から「おてんとさまに恥ずかしくない生き方をしなさい」といった言い回しがありましたね。「おてんとさま」は太陽のことを言いますが、「御天道様」と書いて、「天地をつかさどり、すべてを見通す超自然の存在」といった意味もあります。

 現代でも、この「超自然的なパワー」は、色々な人々にさまざまな呼び方をされています。
 ・サムシング・グレート:村上和雄(遺伝子生物学者・筑波大学名誉教授)
 ・宇宙意志:桜井国朋(宇宙物理学者)
 ・光:飯田史彦(経営コンサルタント・「光の学校」を主催)
 ・「すべて」である知性あるいは根源的な知性:ディーパック・チョプラ(医学博士・「チョプラ・センター」主催)
 ………。
 といった具合です。
 『プルーフ・オブ・ヘブン』のエベン・アレグザンダーは、この超自然的な何ものかを「オーム」と呼んでいました。

 要するに、この世を含んだ「すべて」を支配している何ものかに対して、人は色んな呼び名を与えているようです。
 この何ものかを、現在の科学では証明できないという立場で認めない人もいるでしょう。しかし、本来、「科学によって解明されている範疇を超えることがらについては、科学がそうでないと証明したことと、科学がいまだに発見していないこととを、はっきり区別して考えなくてはいけない」(ダライ・ラマ14世)のです。

 だから、臨死体験からの経験を語られた内容が、いくら科学の常識を超えているとしても、それを頭から否定することは、決して科学的な態度ではないのです。
 
 それよりも興味深いのは、物質を超えた「存在」を意識すると、いずれの著者も共通して、謙虚になり、すべての人と物がつながっているという意識から、「許し」ないしは「愛」、「思いやり」という心に目覚めているところです。

 より大きな「存在」を意識すれば、俗世間の地位や名誉や金や権力といったものは、すべて取るに足らないものに思えてくるのかも知れませんね。