2014年2月17日月曜日

脳外科医の臨死体験を読んで考えた

 昨日の京都新聞の書評で、アメリカのベテラン脳外科医エベン・アレグザンダーの『プルーフ・オブ・ヘブン 脳神経外科医が見た死後の世界』[早川書房]がアメリカで200万部を超えるベストセラーになっているという記事を読み、kindle版で購入してさっそく読んでみました。



 著者は、化学を専攻した後、1980年にデューク大学メディカル・スクールで医学の学位を取得し、デューク大学、マサチューセッツ総合病院、ハーバード大学で11年間を医学生、研修医として過ごした医師です。また、神経内分泌学の研究に専念した研究者でもあります。その後、ハーバード・メディカル・スクールで脳神経外科の准教授として15年間勤務し、数多くの手術も手がけていました。
 要するに彼は、「科学に自分を捧げてきた人間」なのです。

 その彼が、2008年11月10日、54歳のときに、大腸菌による細菌性髄膜炎に罹患し、7日間昏睡状態に陥ります。ところが、彼はその後、奇跡的に意識を戻しました。そして、自分自身が昏睡状態にあるときに体験した「不思議な世界」(彼はこれを、物質や人間の意識を超えた高次の存在と「解釈」しています)の記憶について、人々(とりわけ彼と同じ医師や研究者)に向けて、語る必要があるという義務感にかられて、『プルーフ・オブ・ヘブン』を書いたそうです。

 これが、日本のタレントあたりが語られたものだったら、話半分に聞くところですが、自身「科学に自分を捧げてきた人間」だと言っている人物によって語られたとなると、信用度が上がりそうです。読んでみると、実際、彼は慎重に言葉を選び、真摯に自分自身の稀有な体験を語ろうとしている姿勢が伝わってきます。

 しかし、昏睡状態で経験した世界は記憶としては鮮明ではあるけれども、「こちらの世界」の言葉では、十分に表現しきれない、と著者自身が言っています。だから、文字になって、さらにそこに解釈が入ってくると、それはもはや、彼が体験した「不思議な世界」そのものではなく、あくまで「こちらの世界」の言葉で表した「あちらの世界」ということになってしまうところがもどかしいところです。

 いろんな読み方があるかもしれませんが、ぼくは、これを読みながら、グリア細胞のことを考えていました。(著者は、グリア細胞の関与についてはひと言も触れていません)
 確かに、細菌性髄膜炎で大脳の表層の細胞(とりわけニューロン)の「電気的活動」は停止し、正常な脳波は記録されなくなってしまったかも知れません。しかし、著者の場合は、心停止からの蘇生による昏睡ではなく、心臓はずっと動き続けた上での昏睡でした。したがって、脳への血流は保たれたままでいたはずです。すると、大多数のグリア細胞は生きたまま活動していた可能性が考えられないでしょうか?
 以前にも触れたように、グリア細胞というのは、カルシウムイオンの流入という方法で情報の伝達らしきものを行っています。現在、臨床医学では、このカルシウムイオンの動態を知るモニターは存在していません。だから、現状では、医師たちは脳波に頼って、植物状態であるとか脳死であるとかといった判断をすることしかできないのです。

 大胆な仮定として、著者のエベン・アレグザンダーが体験した「臨死体験」の世界における認識が、グリア細胞の活動によるものだとしてみましょう。すると、彼が『プルーフ・オブ・ヘブン』の中で描いた世界は、「死後の世界」や「高次の世界」などではなく、単にグリア細胞が描く世界だということになりはしないでしょうか?

 著者によれば、著者の記憶は「あの場所を後にしたときのままに、どこも色褪せずにそこにあったのだ」そうです。これがグリアの記憶だとすると、グリアの記憶はけっこう鮮明な記憶のようですね。
 また、「こちらの世界よりも高い次元にある世界では、時間が同じようには流れていないのだ。そこでは必ずしもものごとが順を追って展開しない。一瞬が一生分の長さに感じられたりした。だがわれわれの知る時間感覚と比べれば異質ではあるものの、支離滅裂なわけではない」とも述べています。時間の経過や論理的な整合性、言語で表される意味などといったことについては、神経細胞(ニューロン)の活動が要求されるのかもしれません。
 著者は、「あちらの世界」で美しい音楽を聞き、すべてのことを許される「愛」のような存在を感じたとも表現していました。つまり、ニューロンの活動が停止していても、音楽を感じたり、愛に満ちた感覚などは残っていたのです。美や善、あるいは音楽などという内容は、ひょっとしたらグリア細胞の活動が支えているものかもしれないな、と『プルーフ・オブ・ヘブン』を読みながら考えました。